海外に設立された、ある大学所蔵の目録を作成している。
数年前に、その大学図書館の基本方針が変更となり、分館方式から一カ所集中方式になったからである。したがってこれまで図書館で所蔵していた和本に加えて、最近、大学内の各所から発見された和本群も合わせて一括された。ほぼ全体像が把握できるようになったのは、幸いである。
ところで、問題が、これからである。これまでにも3名の専門家によって、その大学所蔵和本目録が作成されたが、なぜか我々が蔵書目録作成に着手したと聞きつけた3名のうちのお一人T先生が猛烈な抗議を繰り返した。理由らしき理由もないのであるが、その方に依れば、自分が優先権を有しているので、徒に手をつけるなという口ぶりである。未調査であるので、その調査が終了するまで、他の研究者が着手するのは、確かに仁義に反する。
しかしながらすでに調査が完了して、その調査結果を公表しているとすれば、いつまでT先生の無理難題が通じるのであろうか。しかし、噂では、私たちを含めて、もう一カ所の研究機関の発表にも圧力を掛けているという。
さて、執拗な抗議に音を上げた私たちも、T先生が手がけた調査を省いて、それ以外の分野の調査であれば、問題は無いだろうと信じて、それを実施したが、確かに私たちに抗議文が送りつけられることはなかった。
さて、問題はこれからである。そのT先生が誰にも手をつけさせない部分の調査に関して、先日、司書から手渡された資料(受け入れ原簿)を見て、腰を抜かして驚くこととなった。一目瞭然にその図書館作成資料そのままに、T先生の所蔵目録が作られていたからである。逆に言えば、T先生は書誌学調査を実施することなくして、単に受け入れ原簿を転記しただけであった。その作成は50歳代の働き盛りの時期。よもやそうした手を抜いた仕事をなさっておいでであったとは。
そうだからこそ、それ以降、誰が調査に手を染めようとも、T先生は強行に抗議文を送りつけてきたと推測できよう。自らの手抜き「工事」が白日の元にさらけ出されることの屈辱は、何としても避けなくてはならないからである。T先生の自尊心は、そうした恥辱を絶えられなかっただろう、たとえ自ら撒いた「種」であろうとも。
2008年12月25日木曜日
2008年12月23日火曜日
敗戦後、けいじょうから打電された無線連絡網
渡邊学教授(けいじょう帝国大学理工学部附属理科教員養成所)によると、敗戦後に於いても、けいじょう帝国大学本部は東京の文部省との間で、無線連絡を用いて指令・上申を交わしていたという。
1945年10月18日の郵便配達
高田実教授(旧京城帝国大学理工学部)の日記によると、1945年10月18日に京城の自宅に、1945年7月28日附け、東京で投函された絵葉書が届いたとある。敗戦の混乱の中で、郵便配達システムが残存していたとは。
(京城帝国大学創立50周年記念誌『紺碧遙かに』、昭和49年、所収)
(京城帝国大学創立50周年記念誌『紺碧遙かに』、昭和49年、所収)
痩骨先生紙屑帖
1945年8月15日前後の京城を活写した田中正四教授(京城帝国大学医学部)の日記を見る機会があった。管見にして、思いも掛けない発見があった。
(1)1945年8月14日に、京城市内に「8月15日の天皇による終戦の詔勅」を予告するビラが貼られたということ。
(2)1945年8月15日、敗戦の日、京城市内には朝鮮人による万歳行進はなかったこと。その行進は、翌日の8月16日であったこと。
(3)8月31日に、新聞の宅配が再開されたこと。
(4)10月13日現在、京城市内で販売されていた新聞は12種。「毎日新報・東亜日報、朝鮮日報、東方新聞、海外通信、民衆日報、革命新聞、自由新聞、人民報、ソウル新報、Korean Times、Seouk Times」。
(5)12月6日、朝鮮に残りたいと願う日本人たちが存在したこと。
(6)12月26日、日本語ラジオ放送は1日1回、耳に出来たこと。
(1)1945年8月14日に、京城市内に「8月15日の天皇による終戦の詔勅」を予告するビラが貼られたということ。
(2)1945年8月15日、敗戦の日、京城市内には朝鮮人による万歳行進はなかったこと。その行進は、翌日の8月16日であったこと。
(3)8月31日に、新聞の宅配が再開されたこと。
(4)10月13日現在、京城市内で販売されていた新聞は12種。「毎日新報・東亜日報、朝鮮日報、東方新聞、海外通信、民衆日報、革命新聞、自由新聞、人民報、ソウル新報、Korean Times、Seouk Times」。
(5)12月6日、朝鮮に残りたいと願う日本人たちが存在したこと。
(6)12月26日、日本語ラジオ放送は1日1回、耳に出来たこと。
2008年12月22日月曜日
1930年作成の台北地図

偶然に1930年作成の台北地図を発見。正確には「台北市地図」2万5千分の一。例によって、表記法は右から左。台北駅を中心にして、上部は台湾神社、下部は台湾総督府(1919年竣功)を取り巻く官庁街までの植民地空間を、日本人のための日本人による日本人自身が作成した地図である。この地図は、1896年4月1日に設立された台湾総督府による都市計画・都市建設や「帝国」日本のインフラ整備、各種建築物を網羅した一覧表である。清からの台湾割譲と軍事的占拠による台湾支配は、日本にとって最初の植民地建設である。
1,行政ーー台湾総督府、台湾高等法院、総督官邸、測候所、専売局、公会堂、郵便局
2,金融ーー台湾銀行(1937年8月4日竣功)
3,学校ーー台北帝国大学、台北高校、第1高等女学校、第2高等女学校、第3高等女学校、第1中学校、第2中学校、樺山小学校、
4,病院ーー台北医院
5,図書館・博物館ーー台湾総督府博物館
6,駅ー台北駅 (1901年8月竣功)
7,ホテル・デパート・映画館・劇場ーー台湾鉄道ホテル
8,企業ー三井物産
9,寺院ーー東本願寺
10,教会ーー日本基督教団台北幸町教会(1916年竣功)
11,神社ーー台湾神社
こうした建築物を列挙しながら気づいたことは、台湾支配がスタートした直後、最初に建設したのが総督府官僚たちの官舎であったことは言うまでもないとして、その次に「国語学校校舎」(日本語普及を目的に設立、1987年竣功、煉瓦造り平屋建て)であったことである。
1,行政ーー台湾総督府、台湾高等法院、総督官邸、測候所、専売局、公会堂、郵便局
2,金融ーー台湾銀行(1937年8月4日竣功)
3,学校ーー台北帝国大学、台北高校、第1高等女学校、第2高等女学校、第3高等女学校、第1中学校、第2中学校、樺山小学校、
4,病院ーー台北医院
5,図書館・博物館ーー台湾総督府博物館
6,駅ー台北駅 (1901年8月竣功)
7,ホテル・デパート・映画館・劇場ーー台湾鉄道ホテル
8,企業ー三井物産
9,寺院ーー東本願寺
10,教会ーー日本基督教団台北幸町教会(1916年竣功)
11,神社ーー台湾神社
こうした建築物を列挙しながら気づいたことは、台湾支配がスタートした直後、最初に建設したのが総督府官僚たちの官舎であったことは言うまでもないとして、その次に「国語学校校舎」(日本語普及を目的に設立、1987年竣功、煉瓦造り平屋建て)であったことである。
2008年12月21日日曜日
Blogをスタート---誰のためでもなく、我が未来のために
馬齢を重ねてきた今となって、残りの人生は貴重である。「如何にしても死に行くべき身を、心ばかりに惜しみ持つとも叶ふべからず」(『正法眼造』)。本Blogを書き続ける時間さえないのも事実である。しかしながら我が人生の来し方・行く末を書き続けながら、今を生きる「確かな手応え」を心密かに楽しみたいと思う。凡庸な生き方をしてきた私であるだけに、この歳になって、自由に書き続けることで。
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昨日は、久しぶりに一日を我が為に費やした。今風に言えば、「Offを自由に生きた」と言っても良いだろう。朝遅くまでBedで過ごして、独自ブレンドのコーヒーを嗜み、好物のヨーグルトを口にして、そして仕事とは全く縁遠いジャンルの書物を読み進めたのだから。とりわけ来週に予定している台湾訪問のための資料調査に大部分の時間を費やした。日本統治期台湾に関する情報を求めて、Net検索に努めた。検索語は、「日本統治期台湾」、「日本統治期 台北」などを思いつくままに書き込みながら、Netを遊んだ。
思いも掛けない情報に接した。
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その1)http://jdzg.exblog.jp/4016355/
台湾日本統治期裁判文書
東文研セミナーのご案内(7月12日)日時:7月12日(水)13:00〜15:00場所:東京大学法学部中会議室(法文1号館法学部側2階。3階法学部事務室に上がる階段の中二階的な部分のドアをはいって左に進む)講演者:王 泰升 氏(Wang Taisheng)(国立台湾大学教授)題目:「台湾日本統治期裁判文書」(仮題)(中国語。通訳は西 英昭氏。京都大学大学院法学研究科研究員・東京大学東洋文化研究所非常勤講師)内容:近年、日本統治期の台湾における裁判文書原本が台湾において発見され、整理作業が進められています。この資料群は台湾法史研究においても日本近代法史研究においても重要なものです。この資料群を紹介するとともに研究上の課題について検討します。主催:東京大学東洋文化研究所班研究「中国法研究における固有法史研究、近代法史研究及び現代法研究の総合の試み」
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その2)http://www.biwako.shiga-u.ac.jp/eml/kouenkai/WS3_10.htm
「台北高等商業学校卒業生の動向に関する一考察」(『東洋史訪』8,2002.3)や「日本統治期の台湾における高等商業教育」(『現代台湾研究』23,2002.7)などの多数の論考を発表している横井香織の今回の報告は、「日本統治時代の台湾におけるアジア調査-大正南進期を中心に」と題された。横井の関心は、「近代日本が、アジア地域をどのように調査・研究し、アジアをどう認識していたのかについて、台湾総督府を中心に展開された調査活動に着目してその実態を解明し、歴史的意義を検証すること」にある。近年、「戦後のアジア研究・フィールド調査の源流を探る」とうたった『岩波講座「帝国」日本の学知』第6巻「地域研究としてのアジア」(岩波書店、2006年)が刊行され、そこに収録された松重充浩の「戦前・戦中期高等商業学校のアジア調査」がおもに、山口高等商業学校(現在の山口大学経済学部の母体)をとりあげて論じたように、戦前のアジア認識やアジア調査・研究をめぐって、高等商業学校が重要なフィールドとして提起されている。戦前の高等商業学校は、「内地」だけでなく、朝鮮や台湾などにもあった。横井は、ほとんど取り上げられてこなかった「外地」である台湾の高等商業学校の研究を開拓したひとりである。 報告では、台湾銀行、南洋協会台湾支部、台北高等商業学校の順で、台湾の諸機関におけるアジア調査について、ついで台湾総督府の「南支南洋調査」について述べられた。台北高等商業学校の卒業生が台湾総督府や台湾銀行に就職し、総督府関係者が台北高商の校長や教官に就任するなど、台湾銀行(調査課を設置)、台北高等商業学校(南支南洋経済研究会の活動や、海外修学旅行の実施)、南洋協会台湾支部、台湾総督府(官房調査課を置く)はそれぞれに人脈と交流をつくりあげ、それらをとおして、官民両機関の調査実績が台湾総督府に蓄積されてゆく構造があった、と横井は論述した。 横井の報告は、おもに「南支南洋」というアジアにむけられた帝国日本の学知を、台湾における人材育成と人脈、資料(報告書など)の作成と蓄積においてとらえたといえよう。こうした観点での論述は、「内地」の高等商業学校においても待たれるところであるし、また、報告後の論議でも示されたように、台湾総督府に集積した調査のその内容の分析も、これからの課題となる。出席者7名。(経済学部助教授 阿部安成)
++++++++++++++++++++++++++++
などなど。予想だにしなかった情報である。興味深かった。台湾を「朝鮮」に置き換えて考える習慣を持つだけに。
その後、日本統治期台北の古地図を求めて、Netを歩き回ったが、徒に時間を浪費するだけであった。ふと、我が書棚を眺めると、『日本地理大系11---台湾篇』(改造社、1930年)が目に飛び込む。日本統治期の台北地図には、当時の地名を書き込んであり、台北駅・台湾総督府・総督府病院・台湾博物館などを眼で追った。
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昨日は、久しぶりに一日を我が為に費やした。今風に言えば、「Offを自由に生きた」と言っても良いだろう。朝遅くまでBedで過ごして、独自ブレンドのコーヒーを嗜み、好物のヨーグルトを口にして、そして仕事とは全く縁遠いジャンルの書物を読み進めたのだから。とりわけ来週に予定している台湾訪問のための資料調査に大部分の時間を費やした。日本統治期台湾に関する情報を求めて、Net検索に努めた。検索語は、「日本統治期台湾」、「日本統治期 台北」などを思いつくままに書き込みながら、Netを遊んだ。
思いも掛けない情報に接した。
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その1)http://jdzg.exblog.jp/4016355/
台湾日本統治期裁判文書
東文研セミナーのご案内(7月12日)日時:7月12日(水)13:00〜15:00場所:東京大学法学部中会議室(法文1号館法学部側2階。3階法学部事務室に上がる階段の中二階的な部分のドアをはいって左に進む)講演者:王 泰升 氏(Wang Taisheng)(国立台湾大学教授)題目:「台湾日本統治期裁判文書」(仮題)(中国語。通訳は西 英昭氏。京都大学大学院法学研究科研究員・東京大学東洋文化研究所非常勤講師)内容:近年、日本統治期の台湾における裁判文書原本が台湾において発見され、整理作業が進められています。この資料群は台湾法史研究においても日本近代法史研究においても重要なものです。この資料群を紹介するとともに研究上の課題について検討します。主催:東京大学東洋文化研究所班研究「中国法研究における固有法史研究、近代法史研究及び現代法研究の総合の試み」
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その2)http://www.biwako.shiga-u.ac.jp/eml/kouenkai/WS3_10.htm
「台北高等商業学校卒業生の動向に関する一考察」(『東洋史訪』8,2002.3)や「日本統治期の台湾における高等商業教育」(『現代台湾研究』23,2002.7)などの多数の論考を発表している横井香織の今回の報告は、「日本統治時代の台湾におけるアジア調査-大正南進期を中心に」と題された。横井の関心は、「近代日本が、アジア地域をどのように調査・研究し、アジアをどう認識していたのかについて、台湾総督府を中心に展開された調査活動に着目してその実態を解明し、歴史的意義を検証すること」にある。近年、「戦後のアジア研究・フィールド調査の源流を探る」とうたった『岩波講座「帝国」日本の学知』第6巻「地域研究としてのアジア」(岩波書店、2006年)が刊行され、そこに収録された松重充浩の「戦前・戦中期高等商業学校のアジア調査」がおもに、山口高等商業学校(現在の山口大学経済学部の母体)をとりあげて論じたように、戦前のアジア認識やアジア調査・研究をめぐって、高等商業学校が重要なフィールドとして提起されている。戦前の高等商業学校は、「内地」だけでなく、朝鮮や台湾などにもあった。横井は、ほとんど取り上げられてこなかった「外地」である台湾の高等商業学校の研究を開拓したひとりである。 報告では、台湾銀行、南洋協会台湾支部、台北高等商業学校の順で、台湾の諸機関におけるアジア調査について、ついで台湾総督府の「南支南洋調査」について述べられた。台北高等商業学校の卒業生が台湾総督府や台湾銀行に就職し、総督府関係者が台北高商の校長や教官に就任するなど、台湾銀行(調査課を設置)、台北高等商業学校(南支南洋経済研究会の活動や、海外修学旅行の実施)、南洋協会台湾支部、台湾総督府(官房調査課を置く)はそれぞれに人脈と交流をつくりあげ、それらをとおして、官民両機関の調査実績が台湾総督府に蓄積されてゆく構造があった、と横井は論述した。 横井の報告は、おもに「南支南洋」というアジアにむけられた帝国日本の学知を、台湾における人材育成と人脈、資料(報告書など)の作成と蓄積においてとらえたといえよう。こうした観点での論述は、「内地」の高等商業学校においても待たれるところであるし、また、報告後の論議でも示されたように、台湾総督府に集積した調査のその内容の分析も、これからの課題となる。出席者7名。(経済学部助教授 阿部安成)
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などなど。予想だにしなかった情報である。興味深かった。台湾を「朝鮮」に置き換えて考える習慣を持つだけに。
その後、日本統治期台北の古地図を求めて、Netを歩き回ったが、徒に時間を浪費するだけであった。ふと、我が書棚を眺めると、『日本地理大系11---台湾篇』(改造社、1930年)が目に飛び込む。日本統治期の台北地図には、当時の地名を書き込んであり、台北駅・台湾総督府・総督府病院・台湾博物館などを眼で追った。
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