2009年12月26日土曜日

朝鮮物語Text---木部+松原

京都府立総合資料館『朝鮮物語』を底本とする。
以下、記述の補注・校合については、諸本を以下の様に略記する。
日鮮史話掲載本→(鮮)、校合部分は[ ]で補記する。
島根県日原村水津氏所蔵『秘書朝鮮新話』写本→(新)、同右は{ }
李元植氏所蔵『松原昌軒 朝鮮談話』→(談)、同右は〔 〕
筆者による補注→( )で補記する。
諸本との校合は、内容的な部分について行い、言い回し・送り仮名等の異同については省略した。
※異体字の「より」は「ヨリ」に置き換える予定ながら、一部は直っておらず「・」になっている。原本を参照する必要あり。
※注釈も中途のまま。

参考・日鮮史話本『朝鮮物語* )』序文* )
対馬州に而、家来松原新右衛門と云者、数年大通詞役相勤、数ケ年朝鮮にも在番仕、彼国之様子委細存知巧者に候、対州之暇を取、享保八年に長門州萩え参候、予心安〔令談話〕致話談、朝鮮物語承之、追々記置候
但、右之通故、新右衛門、宝永・正徳両度之信使* )時分も大通詞役にて江戸え参候事

『朝鮮物語』(京都府立総合資料館所蔵)
 松原新右衛門朝鮮物語
松原新右衛門ハ本朝鮮之大訳官ニて対馬国之家来也、朝鮮にも数年在番し、彼国之趣を物語す、間に其答滞事なし、正徳元年なり享保四年信使時分、其役として(江戸)東武江往来し其嶺を能知り、其後対州之暇を取、処士と成て萩に至れり、惟は治教休明にして不招といへ共、慕ひ国宝聚来する謂なり、私に其徳を考るに漂民之為而已ならす、余時応変て重宝たらん事、長防之地勢に叶たる儀今其計量をしらす、又本朝之書物を考るにも悉其証有り、殊に近年之新儀に至てハ古記ニ無具、其言を以知易く皆拠とするに足る故、是を草稿に記し童蒙之(便)使とする也
  享保十三戊申正月日   江隣擴挌書之

   朝鮮物語
(1)一、対馬国ナカ長サ(鮮・談・新では「広サ」)三十六丁壱里ニして* )三十八(鮮・談「三拾五」)里有り、横広キ所十里或ハ五、七里也(鮮・談・新「横ハ広キ所五里或ハ三里或ハ弐里或ハ一里也」)(鮮)・(新)・(談)
(2)一、赤間関ヨリ対馬へ之程、海上八十里余有、尤直程ニして之積也(鮮)(新)(談)
(3)一、対馬国さすな浦之関所ヨリ朝鮮釜山浦之船着迄、表方四十八里と云共甚近ク御座候、弐拾里計も御座候事
但佐須那浦ハ三月ヨリ八月迄之出津場ニシテ、鰐浦を以九月朔日ヨリ三月朔日迄之出津場に定る也、さすな浦之儀冬に相成候てハ船之乗[下]前悪敷に依てなり、鰐浦ヨリも朝鮮へ之程、さすな浦同前候事(鮮)・(新)・(談)
(4)一、釜山浦船着ヨリ日本館* )迄之間、日本之程ニして一里有、尤浜伝ひニて候事(鮮)・(新)・(談)
(5)一、日本館之広サ五百間ニ三百間程之屋敷ニて、其内小山なとも御座候、右之屋敷を一曲輪ニシテ東之方ニ門有之、是ハ常々出入之門也、北之方ニ門有之、是ハ日本人を饗応等仕時屋敷ヨリ北之門江出饗応場* )へ参なり、右に申北之門ヨリ饗応場江間壱町程有之事(鮮)・(新)、(談→ただし一部脱漏あり)
(6)一、饗応場も百間四方程之屋敷ニて、夫々家を段々立たる者なり(鮮)・(新)・(談)
(7)一、饗応場ヨリ日本道半里計往而、リツ祥所(他本は全て「拝所」)と云者有、拝所* )者是も屋敷有て門を二ツ入、左候而(雁木)がんぎを上り、其上に檀有、夫江朝鮮之敷物なと敷候而、朝鮮王を拝させ申所也、其拝所ヨリ五十間計上ニ楼閣有て額を打有之、其額に殿之字書て御座候、朝鮮王之殿と云事也、〔直ニ拝する事ニてハなく、右之額を打たる殿を拝し申候事〕(鮮)・(新)・(談→末尾の記述はこの本にしか見られない)
(8)一、毎年対馬守殿* )ヨリ八度宛之使者有之、是を八送使* )と云、左候而毎年八度宛順番ニして使者有之也、其外一切余時之使者ハ別格なり、朝鮮之吉凶・日本之吉凶ニ付候而之使者、又ハ漂民ニ付候而も使者段々有之候事、[常ニ使者絶る儀無之事](鮮)・(新)・(談)、いずれにも末尾の記述あり。
(9)一、八送使之度々幾度もリツ祥(他本は「拝」)所ニて朝鮮王を拝させ、尤饗応有之候 事(鮮)・(新)・(談)
(10)一、饗応之様子ハ釜山近辺之大名* )、朝鮮王ヨリ被申付五里六里之間ヨリ出相候而饗応仕候事(鮮)・(新)・(談)
(11)一、饗応之儀、飯をハ出シ不申候、タゞ只菓子酒肴計ニて段々饗応御座候事(鮮)・(新)・(談)
(12)一、毎年初之使者は双方之安否なとを問、或ハ書中なとも有之、饗応計御座候、且又二番目之使者ヨリ馳走に女楽有之候、女楽之人柄ハトクネキ東莱之ケイ傾国来て女楽を仕候、女楽之節者段々之囃子方也、カツキ楽器ハ十二弦琴・九弦琴・太鼓・鼓・笛・鉢等ニ而囃子申候事(鮮)・(新)・(談)
(13)一、使者数之事
 正月ニ第一〔番〕船
シヤウ正官壱人、フ副官壱人、都船主壱人、フウシン封進壱人、ニナモリ荷押主壱人、シハウ侍棒弐人も有壱人も有、大概第一之船ニハ弐人付候也、〔{ハンジン伴人六人}〕
右正月ニ往、六月ニ帰也、朝鮮ヨリ之馳走ハ六十日之間也、其間何れも用意不入候事
 第二船
 第三船
 第四船
右使者数、以上八度ニて、本ハ八船迄有之候得共、其後五船ヨリ八船迄ハ略に成、一船ヨリ四船迄ニて相済候、尤八船使分之段々饗応有之候、五船ヨリ以後ハ使者為参心ニて饗応有之候、二船三船四船之使者も六十日宛罷居申候事
且又イテイ以酊庵使
正官壱人、封進壱人、伴人弐人、侍棒壱人
右以酊庵使之儀、軽き使者ニ付第二船に付候而往申候、昔ハ以酊庵主直ニ被参候所ニ、其以後対馬殿ヨリ使者仕立被申候、以酊庵使と名乗参申候事(新)・(談)
(14)一、五船ヨリ八船迄之使者へ馳走之儀ハ饗応分之下行有之候て、本式之饗応ハ無御座候事(新)・(談)
(15)一、釜山之浜際ニ城有、秀吉公朝鮮陣時分被築せ候日本城ニて、一方ハ沼、一方ハ田、一方ハ海ニテ御座候、但城番之儀ハ交代ニテ三年に一度宛都ヨリ被参入代ニて御座候事、〔(談)では(31)の文がここにあり〕(鮮)・(新)・(談)
(16)一、右釜山之城之上手ニ亦城有、是をも日本城ニて今ハ明き城ニ而御座候、城内ニ古キ墓とも多ク相見へ候、朝鮮陣時分ニ死たる者之墓と相見(他本は「聞」)候事(鮮)・(新)・(談)
(17)一、対馬ヨリ参候為究使者之饗応ハ釜山城番ヨリ之饗応ニ而御座候、余時之使者ハ近年(新・談は「近辺之」)領主エ時々被申付候而饗応有之候事(新)・(談)
(18)一、八シ使之度々対馬守殿ヨリ朝鮮ニ而礼曹参議・参半[〔之官江書状被差越候、礼曹参議・参判ハ〕]其外国ヨリ之取次仕役ニ而御座候事(鮮)・(新)・(談)
(19)一、対馬守殿へ旧格ニ而朝鮮米壱万六千俵、五斗三升俵ニして買得也、其アタイ價、用物替に被仕候、此方ヨリ遣し被申候物、先ハ水牛角、是ハ阿蘭陀船ヨリ長崎ニて買得被仕、銅・(丁字)ちうじやく・(塗炭)とたん・スゞ錫・(明礬)めうはん、又日本ニ而多候塗物焼物なとをも遣し被下候、胡椒・(蘇芳)すほう* 十)此二色なともイ夷国ヨリ相求遣シ被申候、尤分量究而左之物共ニ而米代之払方相澄候事(鮮)・(新)・(談)
(20)一、今之朝鮮王ハ李瓊と申候、六十歳余ニ而子数多ニ候、其内男子ハ壱人御座候事(新)・(談)
(21)一、五年以前隠居之願を北京江被申出候所ニ赦免無之候、朝鮮王上代ヨリ隠居之例無之故、其通ニて候、常々眼病難儀被仕由候事(新)・(談)
(22)一、朝鮮ヨリ北京へハ一年ニ二度宛使者差越被申候、朝鮮王直に被参儀ニ無御座候事(新)・(談)
(23)一、朝鮮国年号之儀、古格之通本唐之年号を請用ひ申候、只今則本唐之康熈号を請居候事(鮮)・(新)・(談)
(24)一、対馬江一年ニ買込之人参千斤也、あたひ之儀、壱斤ニ付凡新銀壱貫め程ニ当り候、尤其内用物替ニ日本物・唐物且又阿蘭陀水牛角類迄を取集色々遣ひ被申候、然共壱斤ニ付新銀[五百目位は朝鮮の方へ参り申候、已上千斤にては新銀]五百貫め程ハ毎年朝鮮とられ候て日本へ取帰候儀ハ不相成候事(鮮)・(新)・(談)
(25)一、朝鮮日本館へ対馬ヨリ入込候而居候人数、常住凡五百人程宛ニ而御座候(鮮)・(新)・(談)
(26)一、日本館ヨリ日本道一里半計先キニ石碑★如此なるを立置候而、是ヨリ先へ不参様ニと書付切置候、依之日本人夫ヨリ先へ参候儀不相成候、尤石碑之銘ニモ日本人不参様ニと有之候事(鮮)・(新)・(談)
(27)一、人参之儀釜山あたり之山にも有之、尤人家ニモ植付候て有之候、山に御座候も又人家ニ植付候も一統ニ用ひ候得共、兎角山に有之自然生するのが能御座候由之事(鮮)・(新)・(談)
(28)一、釜山浦之船着当りヨリ石碑有之所迄之間、其外近辺皆百姓之家ニて候事(鮮)・(新)・(談)
(29)一、阿蘭陀船ハ朝鮮へ参不申候事(新)・(談)
(30)一、砂糖ハ朝鮮ニ無御座候事(鮮)・(新)・(談)
(31)一、釜山之城番ハ武官ニて釜山を守り候、尤兵船も三艘付居候、殊之外大船ニ而御座候事(新)・(談→ただし、(15)の末尾にあり)
(32)一、対馬守殿ハ根之知行高少々ニ而、大概朝鮮之方交易之利潤を以物成ニシテ被居候、此十年程跡ニテ対馬守殿之利潤、元禄銀ニ而三千貫目余も只一年之内に有之候所ニ、近年ハ中々少シク相成、大形今ハ千貫め計茂可有御座歟、近年ハ朝鮮物高直相成候、朝鮮ニモ唐ヨリ色々之物買込候而朝鮮物に交せ朝鮮物と申候而日本江も相渡様成参懸り候、唐之本が殊外高直相成候、夫故段々高直ニ参り懸り何か六ケ敷利潤只様減り候而、対馬守殿勝手本ヨリハ悪敷相成候事(新)・(談)
(33)一、朝鮮殊之外寒国なり、釜山浦当りハ東南海ニて候処ニ其海之塩氷申候、日本ニ而ハ海ナト之氷り候儀無之候、釜山浦当りニて海辺ハ皆氷り候、都ハ北故猶更寒ク御座候事(鮮)・(新)・(談)
(34)一、日本館ヨリ都迄之道程十二日之程也、都ヨリ本唐之境迄十五日之程ニて候事(鮮)・(新)・(談)
(35)一、朝鮮国ハ南北ニ長ク東西ハ短キ国ニて候事(新)・(談)
(36)一、人参之儀、自然生之人参ハ中々稀之様相見候事(新)・(談)
(37)一、朝鮮之咄、一里と追々申候儀、日本程太概三十六町、依之積りを以申候、一里が三町少シ余ニて朝鮮之千里が日本之百里と積候か能御座候事(新・談→いずれも「一里が三町少シ・・・」以下の文を欠く)
(38)一、朝鮮ヨリ本唐エ使者参候儀相究候而ハ、冬至之嘉儀被申候使者、且又暦を請取差越候使者、以上両度ニ相究り候、其外余時之使者ハ格別之由候事(新)・(談)
(39)一、本唐ヨリ使者朝鮮エ参り候儀、昔ハ稀ニ候所ニ、近年ハ節々ニて一年之内一度又ハ一年ニ二度も有之由候、尤唐ヨリ之使者をハ朝鮮ニ而勅使と唱申候、勅使参り候得ハ朝鮮之痛多、端々ニ至迄も難儀仕之儀、釜山之者共申候事(鮮)・(新)・(談)
(40)一、昔者鉄砲無之候所ニ近年ハ大筒・小筒共ニ日本之通自由有之候、秀吉公朝鮮陣ニハ其頃朝鮮ニ鉄砲無之由ニ候、其以後日本之通ニ不相替鉄砲出来候事(新)・(談)
(41)一、只今ニ而ハ朝鮮、陸戦・船戦共ニ毎年稽古仕、殊外兵を練り候と相見候、釜山当り之様子も船戦等修行仕躰候事(新)・(談)
(42)一、虎を取候儀色々ニシテ取候、鉄砲ニても打申候、虎之形チハ何之子細も無之猫之形ニて、殊外きひしく相見候、長サ一間半計ニ相成候事(新)・(談→途中抜けあり)
(43)一、対馬ヨリ朝鮮へ之間、前ニ申候通弐拾里計、或ハ十八里計も可有御座と相考候、対馬之湊口ヨリ朝鮮を見候得ハ中々委敷相見へ候、煙り之立候も或ハ山〔抔〕松焼候も相見候事(談)
(44)一、対馬ニ居候雉子ハ朝鮮之雉子と壱ツニて候、日本地一統之雉子とハ格別ニて候、朝鮮も対馬も一様ニ生、[殊外]見事ニ細ク御座候、尤味も能候事(鮮)・(新)・(談)
(45)一、朝鮮之者咄申候、朝鮮ニても一切之儀昔と違ひ今ハ驕り申候、多葉粉なとも昔ハ何そニ火を入、きせる又石なとを添差出申候、其後日本ヨリ釜山之きせると而金張之きせる渡シ申候、只今ハ多葉粉盆持ぬ者ハ無之由申候、則日本同前候事(鮮)・(新)・(談)
(46)一、対馬守殿知行之儀、対馬之国一万石、田代一万石、柳川千石、以上二万千石ニて候、乍然家来之配ハ現米五万石程有之候、(ことご)秀と是ハ朝鮮之交易其利潤ニて家来配当も其通ニ被仰付候、只今ハ朝鮮交易利潤前々と違少分ニ相成候故、対馬守殿勝手茂差詰候故不自由候事(新→中程が脱漏)・(談→石高を誤記)
(47)一、正徳之信使時分、対馬守殿へ従公方様三万両之拝借被仰付候、享保之信使時分も其通拝借被仰付候、正徳之拝借ハ三年経調ニ相成候、夫を返済以後又享保信使之時分ニ三万両之拝借被仰付候事(新)・(談)→いずれも「享保」を「宝永」と誤記
※(新)・(談)この位置に次の記載あり。内容的には京都本の(214)に類似。
一、朝鮮国之広サハ日本之九州ニ四国を添候程可有之候由ニ申候へとも、夫よりは広ク可有之と被存候事
(48)一、釜山之日本館あたり江迄、テコ古子(談は「木梗」)* 十)遣ひ又ハかぶきなと之類軽業仕等之者皆々参り、秋ニ至り所務有之候時分者例年在々勧進ニありき申候、則日本之通候、尤古子遣ひ等之者ハ日本之分ニ歌浄瑠理ことき之儀語申候事(新)・(談)
(49)一、日本館廻り都而釜山近辺へユキキ行帰(新・談は「行脚」)之僧一切廻国仕者共数多相見へ候儀、日本之通ニて候事(新)・(談)
(50)一、トクネキ東莱ニも城有之、都ヨリ城番代り々々参申候、東莱之城番ハ文〔官〕館ニて候、城ハ是も日本城之よし候事(新→途中が脱漏)・(談)
(51)一、朝鮮ヨリ対馬守殿へ壱年間に使者参申候、当年参候へハ又来々年参候、対馬守殿江戸より下着候と早速朝鮮江知之使者を差越被申候、是を告還使* 十)と申候、対馬守殿ヨリ〔口上を、御無事ニ候哉承度候、此方ニも国元江罷帰候、東武〕相替儀無之と被申達候、又夫を請取候而朝鮮ヨリ使者参り申候、朝鮮ヨリも口上に、御無事ニ御帰り珍重存候、東武御静謐之段目出度存由抔之口上相当之儀ニて、使者ハ上々官二頭参候、上下ニて以上百人之人数船壱艘に乗申候、兎角九十日計逗留ニて罷帰り候、其間対馬守殿ヨリ段々馳走ニて罷帰候事(新)・(談)
(52)一、公方様と朝鮮王と之御書通ニ、日本ヨリ者正徳何年享保何年と年号御書せ候へ共、朝鮮之方ヨリハ年号無之候、唯エトヒヨミ計を書申候、昔ヨリ今に至迄朝鮮国ニ年号を得立不申、唐之年号を請申候、今も清朝之年号を請申候、唐之年号を書候も気之毒に存、又朝鮮ニハ年号無之故、可仕様無之年号無しに書札相調申候事(新)・(談)
(53)一、朝鮮ヨリ唐江暦を請候使者を以申達、其使者暦を請取候而罷帰り候、唐暦之仕立者殊外大キニ御座候、都而日本之通替儀無之、色々書付候而有之、かまぬりニよし、種まきによし、何初によし抔と有之儀、則日本之通御座候事(新)・(談)
(54)一、右之唐暦を対馬守殿ヨリ朝鮮へ被致〔探索〕短束、弐ツ宛公方様へ毎年差上被申候事(新)・(談)
(55)一、朝鮮ニて虎之儀、釜山あたりニも爰かしこに居候而悪サ仕候、第一人をも喰、牛馬抔者猶更喰、其外をも喰申候、海川をもおよき渡り牛馬江仕懸申候、朝鮮ニて之申伝に、虎之儀人を独喰候得者耳之切壱つ有之候、弐人くらひ候へハ弐ツ切レ、三人くらひ候へハ切レ三ツ有之候、喰候人之数程兎角耳之切目有之候由候事(鮮)・(新)・(談)
(56)一、虎か木に上り候時ハ惣身之毛殊外に〔逆立〕さたち声音サワゝゝ申之由ニ候、〔風を〕生する抔と申俗説ニ候事(新)・(談)
(57)一、日本館屋敷之内抔ニも不図替たる足跡有之儀御座候、定而虎〔之足跡〕ニて可有之と皆被申候事(新)・(談)
※(談)にのみ、この位置に次の記載あり。内容的には京都本の(216)に類似。
一、日本館ニ参り居候者も諸用通達之儀、朝鮮之方と申合せ市を立用物を求候事
(58)一、日本館屋[敷]之内ニ日本之寺一ケ寺有之候付、東向寺と申候、其寺へ対馬之出家弐人参候而居申候、日本人果候得ハ葬祭仕候事(鮮)・(新)・(談)
(59)一、朝鮮釜山あたりへ出家を見候ニ皆沓を拵、筆共仕、其外色々之細工物仕、夫を代替ニて渡世仕と見へ申候事(鮮)・(新)・(談)
(60)一、日本館抔之取繕造作等有之候節、日本館近辺之出家ハ何れも公役ニ罷出日用所ニ相勤(談は「日雇等相勤」)夫々得たる業等仕候、日本之出家とハ中々違ひ相見へ候事(鮮)・(新)・(談)
(61)一、朝鮮国金銀殊外少ク不如意ニ有之候、尤金山銀山共大分有之由候得共、日本之通山中エ深ク不掘込、只寄口計を掘て取候故金銀一円出不申候事、且又銭も少ク候所ニ近年ハ鋳出シ候而太概多ク相成候事(新)・(談)
(62)一、是ハ唐之儀ニて候得共伝承候、本唐ニて只今康熈帝之儀〔ハ〕女直国〔王〕之弟ニて候、根本まづ女直国王之娘美人成を康熈帝之父聞付娶り被申候、左候而段々男子をも誕生ニて候、{今此}康熈帝モ則其子ニて候、其後{右之美人}康熈之母疱瘡を煩〔容貌〕面体悪敷被相成候、夫ヨリ康熈帝之父寵愛薄ク相成、夫を又后も憤り〔惣領〕宗領之子を連て女直国へ被帰候、今女直国之王ハ右之被連帰候男子〔直〕残り居被申候故、康熈帝之為ニ兄ニて候、女直国王ヨリ清朝康熈之方を幕下之様ニ兎角仕成し被申度と種々論有之常ニ不絶其通候、近年ハ唐ヨリ女直国へ毎年金子何斤と〔送物〕有之、其外種々之物如何程〔ニて茂〕と候而被送、唐ヨリも機嫌を取被申候、常住六ケ敷論議有之由候事(新)・(談)
(63)一、近年朝鮮ニ風説有之候、本唐康熈帝之男子数多有之、其内壱人朝鮮国王ニ可仕と存念有(ママ)有之由専申候、左候時ハ朝鮮王ハ牢人ニ成被申候、いかゝ可相成哉と下辺之取沙汰共御座候、朝鮮ニても色々心遣仕、又ハ日本隣(ママ)隣好[ニ可参とか]之参懸り旁種々ニ申成シ左様無之様ニ為仕由、朝鮮人之取沙汰承候事(鮮)・(新)・(談)
(64)一、日本館へ近〔年ハ〕辺之朝鮮人数多参候而常々色々之咄等申相候、其内此方ヨリ雑談ニ、朝鮮人ヅハツ頭髪本唐江不構往古之如ク立候而居候儀ハ日本之影ニて候、日本と之参懸りを唐江色々申立其通ニ居候なとゝ此方ヨリ申候得共、朝鮮人之答ニ、日本ニ構不申とても髪ハ此通なとゝ申候へ共、実ハ日本ヨリ申通ニて御座候事(新)・(談)
(65)一、朝鮮之信使参候節、上々官とて六人参り申候、上々官ハ皆通詞仕候、江戸御城なとニて者上々官之通詞ニて候事(新)・(談)
(66)一、朝鮮人江琉球人と出相候乎と尋候所ニ、朝鮮人之申方、琉球人之儀朝鮮へ者参不申候、一切出相被申儀無之候、朝鮮人本唐へ参候得ハ朝鮮人之旅館と琉球人之旅館と並居候、其節出相有之由申候事(新)・(談)
(67)一、朝鮮之医者〔を〕モ数人見候ニ、何れも本道針外科共ニ兼而相勤候、トヒ都鄙共ニ其通之由ニ候、朝鮮ニ而日本人病気之時者対州ヨリ参居候医者療治仕候、又朝鮮之医者を呼候而も参候事(鮮)・(新)・(談)
(68)一、長州其外近国又ハ九州之内何れと候ても朝鮮之漁船等漂着之時者、其所ヨリ〔長崎江被送、対馬殿屋敷請取申候、[政]改所ヨリ之タツネ尋相澄候上、御指図之上対馬江送届、対馬ヨリ釜山之方へ送届〔申候、朝鮮江帰り候而則〕相澄候、朝鮮へ返シ候得ハ朝鮮ヨリも役人出、段々様子相尋委細之究有之と相聞候、左有而そこゝゝ本之所へ差返申由ニ候、其時送参候対馬殿家来へも殊[外]挨拶能馳走等仕候事(鮮)・(新)・(談)
(69)一、日本館有之候釜山あたり大形田畑之地ニて、耕作之仕様日本同前ニ相替儀無之候事(鮮)・(新)・(談)
(70)一、牛馬之遣方日本相替儀無之事(鮮)・(新)・(談)
(71)一、田畑之植物米ハ不及申、麦蕎其外何茂日本ニて植候類ハ皆植候事(鮮)・(新)・(談)
(72)一、酒ハ日本ヨリも薄ク甘ミモ少ク不相勝候事(鮮→不相勝なし)・(新)・(談)
(73)一、味噌ハ無之候、味噌〔ニ似たる〕つきたる物有之候、夫ニて物を煮給候事(新)・(談)
(74)一、権現様御治世ニ被為成、朝鮮江度々御使被遣隣好之儀交易等之儀被仰越候得共、初者中々合点不仕、日本ヨリ参候使者毎度殺シ抔仕迄ニて居申候、其後且々合点ニて朝鮮ヨリ申候者、秀吉公朝鮮陣時分ニ擒ニ相たる朝鮮人大分日本ニ居申候、夫を御返シ被下候様ニ、左候ハゝ〔隣好仕り交易とも仕度存候と申候、然者其通可被成との事ニて、只今之分ニ相成〕隣好交易之儀御座候、右之節日本江連帰候擒之朝鮮人共大形被差返たる由候事(新)・(談)
(75)一、朝鮮人之咄承候、朝鮮陣時分朝鮮之人大分死失候、其以後今ニ至り候而も朝鮮国之人数中々少ク候、未往古之人数ニハ逢不申由候事(新)・(談のみ「朝鮮人之咄承候」が無い)
(76)一、朝鮮王国中を巡狩等〔被仕候儀〕被仰渡無御座と見へ申候、巡[〔国〕]使ハ[〔節々〕]廻り候と聞候事(鮮)・(新→後半脱漏)・(談)
(77)一、長門あたりへ漂着之朝鮮人申候、海上一日一夜程ニてハ着船仕由候事(新→前半脱漏)・(談)は(68)と(69)の間にあり
(78)一、朝鮮国中官人を初下辺迄之者皆不残衣服を着仕候計ニて、何れも無刀ニて罷居候、〔たとへ武官・軍官之身柄ハ表方相勤候時計〕尤武官軍官之身柄ハ表方何そ時計釼を負ひ、其外何ニても武具を帯し〔不申〕申候、是以平生ハ無刀ニて罷居候、勿論上下人々不残少キかつふりを腰ニ下ケ候而罷居申候、朝鮮国風俗何れも一統ニて候事(新)・(談)
(79)一、朝鮮国銭之〔銘〕名ハ常平通宝と有之候、古ヨリ今ニ其通と相見候付、外之銘ハ見不申候事(鮮)・(新)・(談)
(80)一、朝鮮ニてくつろと申候ハ、座敷を[すえ]座候所(談は「南座之処を」)土ニて塗、其上ニ何ニても相応之敷物仕候、焼火之煙を床之下江やりめくらし候様ニ色々石組抔ニて道をこしらへ、煙をやり候而夫ニてぬくもり満チ候様ニ仕候、別而老人是を用ひ申候、老人ハ大概四季共ニ其座敷ニ罷居申候、対馬抔ニも専ハヤリ時花申候、且又朝鮮人之申方ニ、此くつろ出来候而以来朝鮮人之寿命短〔ク〕シ相成候由申候、然時ハ毒ニて可有之候得共、差当り寒をシノキ凌候段日本之こたつ之心ニて、老人ニ殊外能キとて何れも用ひ候事(鮮)・(新)・(談)
(81)一、前に申置候八送使と云ハ第一船ヨリ四船迄之使者ニて以上四度、并以テイ酊庵使・万松院使・一特送使・副特送使、是ニて八送使也(新)・(談)
(82)一、朝鮮ヨリ対馬江一年間ニ参候使者、且又何そ吉事凶事付参候使者、何れも訳官使と唱候事(新)・(談)
(83)一、日本館之儀、秀吉公朝鮮陣以前者、釜山浦・ウル蔚山・ユウテン熊川(談は「コモカイ」と傍注)以上三ケ所ニ日本館有て、入〔込〕篭之日本人〔数多〕数千罷居、朝鮮日本之両国互ニ心安申相、売買等之儀ハ不及申儀ニ候、然所朝鮮陣起申候、朝鮮陣之少シ前ヨリ右三ツ之日本館居候日本人追々何となく皆日本へ罷帰り候、朝鮮ニて後考候へハ朝鮮陣之催シ存候故鼠路々々日本江罷帰候儀と朝鮮ニて各申たる由ニ候、段々旧記ニ相見申候事
但朝鮮陣以後ハ只今之通釜山浦壱ケ所計ニ日本館御座候事(鮮)・(新)・(談)
(84)一、朝鮮ヨリ対馬守殿へ〔[銅ニて]〕伺候而拵候朱印差越置候、朝鮮へ対馬ヨリ被差越候八送使其外一切差越候船毎ニ此朱印を突申候て持候、日本之賊船等を別而キライ嫌イ申候、右之朱印無之船者日本ヨリ差越たる〔船〕ニて無御座候、朱印持参候分之船ハ不残対馬ヨリ差越船之証拠候、朝鮮と対馬と其段申合せ右之印判を[〔日本へ請取置、右之通日本船に印判を〕]持せ候事、但日本ヨリハ印判不遣置候事(鮮)・(新→記事半ば略される)・(談)
(85)一、朝鮮ニて諸臣下之儀類族二ツニ分レ、一方を南方と云イ一方を西方と申候、日本ニて源氏・平氏と分レたる趣ニて候、只今国政之柄を執り候ハ南方ヨリ出而相勤候、又西方ヨリ出而柄を執り候事も有之候、其段ハ南西〔ニ限り〕時ニ依候事(鮮)・(新)・(談)
(86)一、官名之儀三〔公〕光ハ、領議政日本ノ太政大臣・左議政日本ノ左大臣・右議政日本之右大臣如是候、都而諸官名大概唐似候事(新)・(談)
(87)一、米之直段、白米五斗三升俵ニ付、昔安キ時者銀五匁位仕候、只今者大形十匁位仕候、先年寅ノ歳飢饉之節五拾目も仕候、其時分ハ大分之死人ニて候事(新)・(談)
(88)一、人参直段之儀、凡壱斤ニ付新銀壱貫目位ニ当り候段ハ前ニも申候、其内人参〔之段〕段々上中下ニて直段上中下有之候得共、壱貫目と申候者上中下有之候へ共壱貫目と申候ハ上中下を均※し候而之積候事
但、壱斤ハ四拾両也、壱両ハ四匁也(新)・(談)
(89)一、朝鮮人へ尋承候所ニ、鴨緑江ヨリ北京之順天府迄道程五十日路と申候事(新)・(談)
※(談)のみは、ここに以下の記述あり
右之趣、松原新右衛門と申者、十三歳より対馬殿家来ニて、朝鮮江参滞留仕、殊ニ彼者通詞能心得候故、長州萩江被召抱候、夫故朝鮮之物語追々承候処、具ニ書記置候者也
追加朝鮮人於江府公方様御見参其外聞書
(90)一、三使江戸ニて致登城御目見之儀ハ、御簾之外次之間ヨリ拝仕候、厳有院様御代迄之格ハ御簾を高く巻上候而拝被仰付候、然処常憲院様之御代初三使登城有り拝之時、不図間違候而御簾を御身柄半分も不見程ヒキク卑巻上ケ候処、三使申方格式違申候〔間〕、拝仕かたくとて拝を不仕、何とも不相済場之シラケ候儀ニ相成、対馬守殿其時ニ三使段々懸相有之、〔其通り〕壱通ケ様公方ヨリ被仰出たる儀絶而不相替日本之例ニて候、拝不仕候得ハ則チ対馬守三使トサシチカエル外無之候抔と種々申相之上、漸納得ニて拝を致申候、若君様之御簾も同く如右卑ク巻候、是ハ幾寄も拝相成不申候、未位ニも付給ニて無之一円不相成と申切候、因茲其時被仰出、公方様右之通ニて拝仕候間若君様へ之儀者被成御了簡〔前々之通〕其通ニて拝可被仰付候と相成拝仕候、其時天和之格式を以御当世初り享保之三使迄ニ至りいつれも御簾を少シ上ケ拝を被仰付候ハ右之格式ニて候、若君様之格ハ〔前々之如く〕御簾を高ク巻上候事(新)・(談)→両者とも「享保」を「正徳」と誤記する。
(91)一、大坂ニて三使江上使を被成候ハ大坂御城代ニて候、宿者門跡ニて候、常憲院様御初天和迄之格ハ、座敷へ上使〔と〕を三使と一同ニ出相ニて候、文照院様御代初正徳之三使之時分、三使大坂江着之砌、江戸ヨリ被仰越候、此度ハ上使門跡之堂江御上り之時、階〔之本江〕被下候三使ムカイ迎ニ被出、又上使御帰之時茂其所江送て被出候得〔との〕共、御下知ニて、三使江色々申聞せ候得共承引不仕候、左様思召候ハゝ先達而朝鮮江可被仰越儀ニ候、左候ハゝ朝鮮王江伺候而日本江可参候、只今俄之被仰懸ニてハ自分抔之仕形兎角不相成申切、江戸ヨリハ兎角迎ひ送被仰付之如クニと被仰下、其間之懸相、三使大坂に〔日数〕{数日}三十日余滞留候得共不埒ニて候、詰之所承引無之何れも此所ニ差置カ、又追立ると成共仕候と申候、正使之師匠学士ニ東郭と申〔者〕て有之候、夫抔を以も色々申させ、いつれも此分ニてハ惣中も難儀之事候抔と種々申達、惣中も〔遂出仕〕{退屈仕}退席仕候而三使へ其通被仕相澄候而可然と相願候〔故〕旁ニ、三使も込り漸納得ニて階之上際迄迎送仕候、然共御当代初享保信使之節者迎送仕候ニ不及、天和之例之如く座敷へ上使と左り右ノ方江一同出相之格ニ相成本へ戻り申候事(新)・(談)→両者とも一貫して「正徳」を「宝永」に、「享保」を「正徳」に誤記する。
(92)一、且又正徳之信使江戸ニて御返翰御渡之時、御状日本〔封〕符ニ仕候を請取間敷と申イナヤ否仕候、御文書之内にも朝鮮王先代之諱字等有之、是をも請取間敷と申而否仕候、ケ様之儀ニ付殊外もつれ不埒ニ相成候、俄に朝鮮へ三役ヨリ飛脚を以申越、朝鮮ヨリ参候国書之文言ニも直り候所有之、漸相澄候、日本ヨリハ右之御状を押付而被遣候事(新)・(談)→両本とも「正徳」を「宝永」とする誤記踏襲。
(93)一、且又正徳文章院様御代者、御返翰日本国王と調被仰付候、是も御当代享保にハ替り、日本国源吉宗と天和之例之通調被仰付昔江戻り候事(新)・(談)→誤記の踏襲同前
(94)一、且又御代々之格式、江戸御城へ三使罷出候節ハ、御能拝見被仰付候処ニ、文章院様御代正徳ニ者音楽被仰付候、是も御当代者本之格式へ戻り御能を拝見被仰付候事(新)・(談)→誤記の踏襲同前
※(新)(談)には、この位置に次の記載あり。内容的には京都本の(221)に類似。
一、文章院様御代(ママ)宝永ニ参候三使者、朝鮮へ帰り候而上々官抔茂皆流罪ニ相申候、大坂ニて迎送り仕不調法、且亦格式之悪敷御返翰を請取帰候不調法、両条之咎メニて流サレたるよしニ候事
(95)一、釜山浦日本館ニて之儀ニ者無之候[〔外ニ]]様ニ、対馬ヨリ参候使者申請、馳走等有之候堂之額、[〔遠柔堂〕]遠第等堂と有之候、〔是ハ〕[〔遠く来る〕]遠来寺をやすんする之心也、額を打有之候事(鮮)・(新)・(談)
(96)一、信使江戸往来之節そこゝゝ御馳走之次第、いつれかいか様と有之儀、対馬守殿ヨリ江戸へ被申上格ニて候、正徳信使時分ハ〔安芸国〕備前蒲苅御馳走之次第壱番と注進御座候、享保之信使時分ハ長門下ノ関之御馳走之次第壱番と注進有之候事(鮮)・(新)・(談)いずれも宝永・正徳の信使と誤記。ちなみに日鮮史話の松田甲は、宝永の信使を寛永の信使と取り違えて注釈を施している。
(97)一、朝鮮諺文と申ハ、朝鮮中古ニ吏文大師と申僧之作りたる字ニ て、朝鮮計ニ有之字ニて、日本之いろは之如し、其字皆朝鮮常之言之声を付たる物候、口ニ一下り有之ハ下江付ケ字ニて候、是を以常之通用書状も相澄申候、常之〔言音〕言之声を付たる物故、何ニも書レ申候、此字出来候而以来ハ通用自由ニ相成候故、其以前ヨリ者学文之心懸薄ク相成候と朝鮮人も申候事(新)・(談)
且又諺文之儀、別巻委細記置分ニ候事(別巻無し)→この但書は他本に見えず
(98)一、朝鮮リ吏文と申ハ、是も則吏文太師作り申候、是ハ漢字ニて夫ニ〔てには〕てねは之字書加たる物ニて候、是ニて朝鮮之上ヨリ書付候而下へ遣物、下ヨリ書付候而上へ出す等之物を相調也、常之書札抔ニ者遣〔ひ〕シ不申候、吏文を作り候故吏文大師と申ニて候事(新)・(談)
且又吏文之儀、別巻委細記置分ニ候事(同前)→他本同前
(99)一、享保十年・十八年か十九年か前之儀ニて候、竹島之儀ニ付朝 鮮と日本と大成出入有之候、其趣者竹島之儀伯耆国之仲ニ有之地・ハ二伯も三伯も間有之有島也、伯耆之国・年々猟船往而色々猟仕候、伯州ニ付たる島之心得ニて居候、朝鮮・も年々猟船参り色々之猟仕候、朝鮮之島と心得居申由ニ候、然共朝鮮人日本人一同ニハ終ニ不参相故か、夫・以前者何之詮議も無之候所ニ、或時伯州之猟船竹島へ船を付ケ早晩船付ケ候と早速大筒を打離し候而船・上り候故、其時も其通船・上候と大筒を打候得ハ、又島之内・も大筒を合候而打申候、此趣者此竹島を朝鮮ニ者鬱陵島と云而本・朝鮮之内と申候、因茲朝鮮之猟師其外ニも参候、何者か我国之鬱陵島へ参り猟を仕候、参候ハゝ咎メ可申と手組ニ而態仕構居候、折柄右之通日本人・鉄砲打候故合せ申候、左候而右之者共出相日本之島と朝鮮之島と之論埒明不申、伯州・江戸へ訴有之、不参様ニと之儀一円承引不仕、段々懸相有之江戸へも追々注進仕候、兎角ケ様ニてハ不相澄候、対馬・朝鮮へ申参候所ニ漸半合点之様ニ相成、朝鮮・之申方書通ニ、我国之鬱陵島へ一切人不参様ニと申付候、我国之鬱陵島へさへ人不遣儀ニ候ヘハ、况日本之竹島へ可参様無之候、左様御心得候へと之儀ニ候、対馬・是ハ不申参直ニ又被申達候ハ、是ハ壱島と一名ニ為仕申方、此分ニてハ不相成と申達候所ニ其後返答不仕候、其段江戸へ御注進仕候処、此上ハ竹島を朝鮮へ可被遣と之儀ニて其通相澄申候、是ハ対馬ニ吟味過候故結局仕損シ候と跡ニてハ申候、其後ハ左様ニ御沙汰相成日本人往事なし、朝鮮・ハ春毎ニ数人参猟を仕申候、尤常ニ番人抔も遣置朝鮮之外之人一切入レ不申候事
(100)一、清朝順治皇帝本唐を征伐被仕候時者、江戸・対馬へ被仰付朝 鮮へ被差越候、自然朝鮮へも順治之軍勢仕掛参候ハゝ、日本・加勢可被遣之御事ニて、朝鮮・之返答早戦も相澄寄、尤朝鮮へも軍を仕懸不被申候、不及御加勢と之儀候、将軍家光公御代也、右之様も対馬ニ御座候事
(101)一、九州五島之向ニ島有、朝鮮之島ニて其名を済州と云、此島人 大概日本詞を遣ひ日本之歌抔をも諷、常々其通ニて候、此島人始者日本人参初メ候て其筋ニて候、段々人数茂出来今之通之由候、朝鮮・支配相成朝鮮国之内ニて候事
(102)一、東莱江日本館・三里有之候、釜山浦日本館之諸沙汰仕候、役 人も東莱ニ居申候、無拠用事等有之節者日本館ニ居候、対馬之 役人東莱へ参朝鮮之役人へ令相対罷帰候事
(103)一、朝鮮ニて子共あるき仕候時、親其外之者ニても恐らかし候を 承候、倭奴来と申候、日本人参候となり、彼国・日本を恐候参 懸右之通候事
(104)一、釜山浦之城主者武官ニて候、釜山僉使と唱、東莱之城主ハ文 官ニて候、東来府使と唱候、対州・朝鮮へ使者参候度々東莱府 使・釜山僉使いつれも出相ニて候、兎角其通ニて候、対馬之使 者と者対座之格ニて相対有之候事
(105)一、対馬・之家老衆使者トして参候時ハ、朝鮮都・挨拶人をも壱人釜山浦へ差出シ被申候、罷出候人柄之位日本へ三使抔ニ参候同前程之格相之身柄ニて候、[是を接慰官と唱候]是も接慰官と対馬之家老衆と之座配対座ニて候事
(106)一、朝鮮之漂流人なとを対馬・送参候時者、釜[山]近辺之城主 替々挨拶に釜山浦へいて申候、是をも接慰官と唱候事
(107)一、萩・朝鮮へ之方角を考るに、西北之真隅之通りが慶尚道之内 ▲張と申所へ当り可申と存候事
(108)一、朝鮮ニてハ目金細工不得仕候、遠目金ニても平生之目金ニて も細工不相成候、夫故日本・も求候事
(109)一、朝鮮ニて日本之挽茶都而日本之茶を殊外賞翫仕候、日本と違朝鮮ハ肉食を強仕候、肉食之以後日本之茶を用候得ハ胸を押上候而殊外能キと申由候、朝鮮王・対馬守殿へ所望ニても被送、又対馬守殿・起りても被送、因茲日本之茶朝鮮に不絶有之候、夫故朝鮮王常々呑茶者日本宇治之茶を用被申候事
(110)一、朝鮮之書物『輿地照覧』と申書之内ニ相見候、朝鮮国之儀、 日本と和合仕候ハね者不宜候、兎角以来末々ニ至而も日本と和合仕候てが国之為能有之候、左様仕候へと記置候、是を以考候ニも日本と和合絶候時ハ朝鮮之為ニ悪敷儀多有之故ニテ可有御座と存候事
一、朝鮮ニハ水牛無之候、殊之外水牛をほしがり候、水牛ニ而半 弓をこしらへ申候、日本・も大分渡候、水牛参候ハねハ半弓何 共不相成と而ほしがり候事
一、朝鮮ニ長キ弓、日本之様成者無御座候事
一、対馬守殿江江戸・被仰付、朝鮮人参千斤宛ハ兎角毎年買得相成儀候、然処ニ三宝四宝之時代、両様之銀子を対馬・朝鮮へ遣ひ懸見候得共、三宝四宝共ニ中々いやがり取不申、人参之買入不相成段江戸江相伺候所ニ、新規ニ銀子御鋳させ被成対馬江被差出、人参買得をも被仰付候、此銀子特鋳銀と御名付ケ被成、対馬江も被差出、人参買得如本無別条相成候、其特鋳銀を考候ニ、今之新銀共・ハ能相見江候、此段差而世上ニ不存儀ニ候、三宝四宝時代右之特鋳銀を以朝鮮へ之銀子払仕候、其以後ニ相成候而祐、只今之新銀をハ被仰付候事
一、朝鮮釜山浦・朝鮮之京都迄之道程十二三日路有之、亦京都・ 朝鮮之往詰唐之境迄ハ十四五日路も有之由申候、両条合而見候 へば釜山浦・唐境迄廿七八日路之長サと見へ候事
一、人参之儀、朝鮮之内ニても白頭山ニ有之人参を以第一と仕候 事
一、対馬之国ニハ人参こさい不申候、対馬守殿朝鮮・人参を大分取寄被植見候得共一円そだち不申候、且又対馬之山ニ有之候人参一通り御座候、是ハ尾人参ニて候、対馬ニも尾人参ハ大分御座候事
一、本之人参も尾人参も根之違候計ニてあとハ少も替候儀無御座、 花も何も一ツ儀ニ而候事
一、人参之花之儀、先ハ白キ花ニて間ニハ色違之花有之由ニハ申 候得共、白花之人参計を見申候、色之違候花をハ終ニ見不申候 事
一、朝鮮人武芸之儀、馬ニ乗候儀ハ兎角日本・上手ニて候、勿論 馬上ニて種々之業仕、弓を射鑓を遣候儀中々上手ニて候、且又 其外之武芸ハ日本之方が上手ニて候事
一、朝鮮人剱を負候を度々見候ニ、一円剱ニて無御座、日本之刀 ニて候、仕立も則日本之仕立ニて候、夫を背負候、ぬき候時者 右肩之上・ぬき申候、最左之手ニてつき上ケ右之手ニてぬき申 候事
一、鑓を持せありき候を見候ニ、鞘ハ一円無之皆ぬき身ニて候、 都而鞘と申儀ハ無御座候事
一、先年長崎之町人伊藤小左衛門、日本之武具を大分朝鮮江内証ニて渡シ候、夫・朝鮮ニ日本之武具大分有之由、最秀吉公朝鮮御軍之節捨り居候武具も有之、其外色々之訳ニて彼方ニ残り候、因茲日本之武具を用来り朝鮮之武具・ハ兎角日本武具之理方能キとて日本之武具之通りニ追々朝鮮ニて何もこしらへ申候事
一、甲冑并刃物之分、太刀ニても鑓抔之類ニても何も日本之通ニ こしらへ申候事
一、秀吉公朝鮮御軍之時分迄ハ朝鮮ニ鉄砲と申儀無之候、朝鮮ニ て書申候『徴非録』ニも鉄砲之儀を鉄砲とハ一円申も無御座候、 丸ニ当而死すると有之候事
一、日本ニて申候竹島之儀ハ朝鮮ニて申候通鬱陵島と云ひ、兎角朝鮮之内と被存候、朝鮮之記録ニも上代ニ此島を取り朝鮮之領内ニ仕候と有之候、日本ニて竹島を見出シ候者差而遠キ年数ニて無御座候事
一、釜山浦之町ハ宿ニて御座候、町之長サ壱里程御座候事
一、朝鮮ニて町之屋作り之儀、日本之町之如クせぎて作り候様ニ 無之、悠々とせき不申様ニ作り候而有之候、夫故火事抔と候而 も大概一軒焼ニて相済類焼無之候事
一、朝鮮ニて座敷之儀、都而畳ハ無御座候、先ハ板敷ニて客有之 節ハ莚抔を出シ候而敷キあいしらい申候事
一、朝鮮之役人歴々ありき候をも見申候、人数をも大分召連候、鑓ハ鞘無シニて何れもぬき身ニて候、鞘と申儀無之候、兎角籏を持せ候、尤昇之籏ニて候、其籏色々ニて白キ籏[も有之、錦の籏も有之候、錦の旗は大旗]ニて三四枚敷も有之候、行列之節ハ籏持候者籏持なから馬ニ乗参候事
一、日本館之儀、古と今ハ違申候、古ハ別之地ニ有之、今之日本 館・一里計ノ間有之候、此古キ日本館之地を只今釜山浦之内古 館と唱申候事
一、只今之日本館之地をハ草梁と申所ニて、古館・一里程間有之候、日本館之地易り候次第ハ、先年筑前之町人伊藤小左衛門、対馬之町人数拾人申談、朝鮮之朝廷江も申合役人談而、日本之武具を大分渡候而、其後相知候已後、何れも御仕置被仰付候、其後之御沙汰ニ、日本館之有所悪敷故如右儀も出来候、所柄可被替と之御事ニて、朝鮮へ日本・被仰返、日本館之地替り候へ、熊川ニ仕候様ニ被仰返候へ共、朝鮮之方ニ左様ハ不仕、漸只今之日本館ニ相成候ハ、唯四十年計跡之儀ニて候事
一、対馬守殿書物之内『経国大典』と申が有之候、是ハ朝鮮書物 ニて朝鮮之当世一切治メ方之記録書物ニて候、殊外能書物ニて 候所ニ得写取不申候事
一、韃靼馬之儀、日本之馬・ハ高サ倍有之候、惣躰之大サも倍程 有之候、韃靼馬朝鮮江も参、朝鮮人数多乗ありき候事
一、韃靼馬者皆きん之玉を抜申候、玉を抜候得ハ発気無之馬之も たへ久敷有之故と也、朝鮮馬ニも間ニハきん玉を抜たるが有之 候事
一、朝鮮朝廷ニて女中江入交り候役人之儀、何れもきん玉を抜申候、是も発気不仕様ニと之儀也、本唐ニハ閇切之人を用ひ候得共、朝鮮人ニハきん玉を抜申候、此違有之候、朝廷之外ニもきん玉を抜たる人を女中へ交り候役人ニ用ひ、閇切仕たる人ハ兎角発気有之候へとも、きん玉を抜たる人ハ絶而発気無之物ニ候、私儀もきん玉類抜様習覚候而人ニても馬ニ而もぬき候事
一、人参之出所
 江原道之内
  江陵・厚州・襄陽・三陟・准陽・春川・鐡原
 咸鏡道之内
  咸興府・安辺・甲山(此所ニ者名鷹も有之)・三水・白頭山
 京畿道之内
  開城府(是を古都と云)
 右朝鮮ニ而人参之出候名所如此也
一、秀吉公朝鮮御陣之時分ニ被成御攻候都か開城府也、其後今之 都ニ替り申候、前之都開城府を只今古都と申候、日本之今京と 南都有之如ク候事
一、朝鮮王常に日本之酒を能とて給被申候、日本と而も京都買東 屋か酒気に応シ、追々対馬へ申来、日本京都・取越候而給被申 候事
一、朝鮮当時之王をハ李瓊と申候、李瓊之元祖をハ吾太子と申而限有之名人ニて御座候由也、此吾太子・以前ハ高麗・新羅・百済を一ツニして持居候、其後吾太子被出新羅・百済・高麗皆一ツニして被治、夫・今ニ続申候、前之高麗王と吾太子之世ニ相成候との間、殊外大軍数年之間有之たる由ニ候事
一、右ニ申ス吾太子之背ニハ龍之鱗有之、今以其子孫ニ者鱗一ツ 宛有之と申候事
一、朝鮮ニて王をハ外にして、諸臣二ツニ分レ南方・西方と而格別之立派ニ而御座候、南方・治を仕時者三公其外夫ニ次たる高官者皆南方ニ相勤、西方・者其以下之官相勤候、且又西方・治を仕時も右之格ニ仕、南方ハ皆其外之官相勤申候、南西之入交りニ者殊之外惣動仕由ニ候、只今者南方之世ニ而御座候、十五六年より前ハ西方之治ニて候処ニ、十五六年跡ニ南政宗と申而中々能人柄出候而、西方治勤不宜段を訴候所ニ、王被有納得南方江可被任と之儀ニ付、南政宗を先として其外南方へ各三公其外能官ニ付、只今ニ至り十五六年以来ハ南之治ニ而候、西方ハ罪科之勤段々有之ニ付、上・も其とがめ有之、銘々海に身をはめ首をくゝりて死スル等之儀数多有之、左候而西方之惣中ハ南方ニ交り勤之形にて参申候、南・西江交り候時も其趣ニ而候、本以来幾度も南西之入交り其図ニ而改申候事
一、朝鮮諸臣装束之色、南方・治を仕時分者南之火色を取、赤装 束を上トシテ用申候、西方・治を仕時者西之白色を取、白装束を上と仕候事也、一切か様之格ニ而候、只今ハ南方之治方故赤色を賞翫と仕候事
一、自分儀、正徳之信使時分者副使付ニ而江戸江参り候、享保之 信使時分ハ正使ニ付而江戸江参申候事
一、日本江三使と候而被参候人柄之儀、疎之人躰ニ而者無御座候、 及第四ツ茂五ツも被仕たる抔成限有之徳之人柄ニ而候、無左候 へ者高位高官ニも上り不被申、日本江も差越不申候事
一、正徳之副使付之節も色々副使と咄相仕候、其内副使被咄候、 朝鮮ニ而近年之名詩有之、諸人是を賞翫仕候と而被申聞せ候、 其詩ニ曰
   富貴若将智力求 仲尼年少合封侯
   世人不識青天意 空使心神半夜愁
一、朝鮮ニ而禄を請る人皆及第を以禄を請申候、及第無しに禄を 請候人ハ一人も無之候、古・今以其通ニて候、尤郷々ニ而及第 有之、是を郷試と申候、田舎及第申候事
一、常之医者ハ不及申、馬医之類迄及第を以禄を請申候、尤馬医 も本之医者を本と仕馬医を習候ハねハ馬医計ニてハ及第ニ不相 成候事
一、朝鮮之咄ニ申候、先年及第有之時孟子之大意を云せ候時、壱人之申様、天理を存し人慾を止ムと申候、中々悦敷埒明ニて能申方と候而禄を請申候、其跡ニ存様ニ兎角埒明而短き申方が相候と而、存し止ると計申候所ニ、何とも短き候而者義理埒明不申と而禄をも不遣落第仕たる由、朝鮮人之咄承候事
一、自分儀馬医を朝鮮ニ而稽古仕候、師匠之儀、都・日本館之二 里脇ニ流され候而居申候、其子細者、馬医之及第有之候時、撰者ニ出候所ニ、賄賂を取り依怙仕、悪敷を能ニ仕、能を悪敷ニ仕候咎メニ依而、右之通流され居候、其人柄江馬医・本医共ニ稽古仕候事
一、諸国へ朝鮮之漂民着船仕、夫を長崎江御送、夫・対馬へ請取 申候、対馬・朝鮮へ被送候時ハ家中ニて逼迫をも仕、上・救被申候ハ而不相叶訳有之者、両人宛付ケ候而送被申候、朝鮮ニて色々之くれ物有之、夫を取帰り、尤其内ニて対馬守殿へ納候品も有之、左候而其跡ニてが壱人分銀六七貫目宛之勝手有之候事
一、朝鮮ニ而織物之儀、差而上品者無御座候、有候物者
  木綿(ムシヨム と申候)
  紬(チウ と申候)
  三升(是ハ毛トロメン如キ之物ニ而候)
  昭布
 右之外糸織物之悪敷類ハ有之、外ニハ何も無之候、能物之分ハ 皆本唐・買求候事
一、対馬江唐船漂流候時ハ、前廉ハ唐船一艘ニ銀壱貫目宛取候、 左候而船を長崎へ送届候、近年ハ左様不仕御国抔一流沙汰被仕 様ニて候事
一、朝鮮ニて鶴・鳫・鴨共ニ日本・ハ殊之外味能候事
一、朝鮮ニ而都而細工ハ無調法ニ候事
一、朝鮮之漁船、余り遠クへ不出、太概十里位を切候而出候と相 見江候、日本江参候漁船ニ而考候ニも遠方江之出船ニてハ無御 座候事
一、むく狗日本・ハ沢山ニ居候、尤常之狗・ハ少ク候事
一、鯨之儀、朝鮮ニハ取不申候、鯨取候ハ日本と阿蘭陀計之由承 候事
一、大根、朝鮮ニ而ハ太概なまニて給申候事
一、朝鮮ニ而牛を殺候儀、中比法度ニ被仕候へとも、牛を給候へ ハ寒気を凌候便ニも相成、其通ニ難相成又殺し候而給候ニ相成 候事
一、羊ハ朝鮮ニ居不申候、唐・参候事
一、日本館江対馬・参居候者共、鷹狩或ハ鶴狩なとニ参候、数寄 候者ハ皆々日本館ニて鷹を持居候事
一、朝鮮之漁人申候者、長門国あたり江之海上ハ百五十里程可有 之と申候事
一、対馬ニ而朝鮮へ書通之儀、文作之儀ハ籍学之長老衆被仕候、対馬之出家十人計を籍学江仕置被申候、其十人之内ニ而頭取ハ色衣之僧ニ而候、残りハ大形たん寮位之出家ニ而候、此十人僧之儀書翰之筆者を仕候、且又書翰之儀ハ唐紙を三四枚合せ而用ひ候、此合せ紙之こしらへ手、対馬ニ而も只壱人有之候、殊之外六ケ敷物之由ニ候事
一、対馬之市中ハ町数廿四町有之候事
一、対馬之城有之候へとも、天守ハ無御座候事
一、対馬守殿三代前・城ニハ不被居、別ニ屋敷有之、夫ニ被居候、 城ハ湿気も強土地悪敷、右之屋敷ニ被居由ニ候事
一、竹島へハ伯耆国・も弐百里、朝鮮国・も弐百里と申候事
一、南京と北京之間五十日路程之間相有之由、朝鮮人申候事
一、北京ニ而朝鮮人居候所ハ玉花館と申候、朝鮮・北京江追々参 候使者絶る事なく何れも此玉花館ニ罷居候事
一、本唐・朝鮮江書物を渡シ候儀者法度ニて少も渡シ不申候、夫 ニ付朝鮮使来聘之節日本ニて書物を大分買候而罷帰候、唐之書 物を日本ニて板行仕候を珍しがり求候而罷帰候事
一、日本ニ而字ニ音と訓有之如クニ、朝鮮ニても音と訓有之候、 趣左ニ記之
  テン  チ   タン   イルホン
  天 地  唐  日本    右ノ方音也、左ノ方訓也
  ハノルスタグ   カンナム   エ ノ
右之通一切字毎分れ而如此也、日本と同前也、音訓之分るゝ子細者、其国之字ニて無之、他国之字を習而通用する故、其字ニ本・有之音を習たる物也、則漢字を朝鮮ニも日本ニも習覚候故音訓両様有之候、一切漢字を習覚而通用する之国ハ皆其通と相見江候事
一、本唐ハ音計ニて相済、別ニ訓と申物無之候、音が則本唐本・ 之詞ニて候、其後ニ字を作り字毎ニ其音を付合せたる儀ニ候へハ音訓分ルへき様なし、故ニ諸事之通用軽ク日本之学文・ハ手早相調候段歴然也、朝鮮或対馬抔ニ而承候ニ、本唐之外ニ何れか西之方ニ当りて壱ケ国音計ニて字ノ通用仕候国有之由ニ候事
一、日本ニ而唐松と申候松之儀、朝鮮ニても沢山ニ有之ニてハ一 円無御座候、惣躰之松ハ皆日本同様之松ニ而候、日本館・五里奥、蜜陽と申所ハ不残唐松ニて余之松ハ無御座由ニ候、其外之所々ニ而も間々ニ唐松ハ有之、跡ハ皆日本同様之松ニ而候事
一、享保十壱年・十八九年も以前之儀ニ而候、朝鮮・使者を対馬 江差越申候、尤此使者ハ対馬守殿江戸・被致下着、此方・朝鮮へ使者を差越被申、其後彼方・使者を差越候時之事也、其時朝鮮之使者船対馬・四五里沖ニ而損し朝鮮人上下大分并日本館ニ罷居候対馬之役人抔も相果候、其後朝鮮江対馬・聞せ遣シ相済候、尤彼船之節者人数壱人も不残相果申候、日本館近辺之百姓とも大分夫々之得物を持、或ハ竹抔をときらかし火ニ当て持、日本館へ仕懸ケ軍とも仕候様ニ日本人をいため、日本人も腹を立朝鮮人をいため大喧嘩仕候、是ハ破船ニ乗居候水主類抔之親子兄弟其外不逢間ともニて候、最前破損ニて朝鮮人相果候聞せハ偽りニて候、兎角日本人が殺し候而偽り申越候とて其通ニ仕懸ケ申候、朝鮮人日本人ともに大分疵づき申候、色々申而も静り兼候、釜山浦之役人方江申遣候所ニ、役人抔かけ馬ニて参押候へハ漸静り相済申候、其時自分なとも日本館之番仕居候内之儀ニて候事
一、朝鮮人之書候物ニ日本人を書誤り一分人と云候而有之候、音 声似たるを以如此書たる物ニて候事
一、朝鮮国八道ニて惣石高四百万石余御座候、尤高四百万石余と 唱申候事
一、朝鮮国絵図ニ八道共ニ巡察使と有之ハ、毎道其下知をなす所也、且又牧使・府使・府尹・郡主・県監・令県抔と有之ハ皆其所々之司也、各命を巡察使ニ請申候事
一、朝鮮国八道共ニ只今開作地大分有之、如何程開立可申も自由 候、其子細ハ秀吉公御軍時分ニ切尽され候以後、土地ニ合せてハ人足り不申、一円往古之人程無御座故、自然と開作地ニ相成地大分御座候事
一、朝鮮ニて葬之儀皆儒葬ニて候、仏法ニて之葬ハ無御座候、且 又儒法ニて葬候後、釜山辺其外在々ニてハ専有之候よりを立、夫江死人乗りうつり色々之事共申候、趣日本ニ有之形ニ相易儀無御座候事
一、浦々ニて猟之祭を仕候儀、日本ニ相替儀無御座、ねぎ之装束 を仕、笹之葉ニ幣之様ニ白紙抔付候而振り舞候を、釜山あたり ニて見申候、か様之儀ハ節々有之見候事
一、前ニ記置候、朝鮮ニて治メ方ニ南方・西方と申而両流有之て 入交り候次第之起り、左ニ記通ニ候
一、朝鮮国、新羅・百済・高麗と三ツニ分レ居、其後高麗・新羅百済を取一ツニ仕候て今之朝鮮一統ニ相成候、其一統ニ被仕候高麗王之時分、仏法を崇教して釈典と申物を初メ南西之分チ出来、徒党を結ひ其角を仕初メし・今之南西之儀初り候事
一、一年ニ者弐度も三度も其上も日本船朝鮮江漂着仕候、左候時 ハ日本之如クニ馳走仕類共をも遣シ、段々と送り対馬江送り申候事
且又十四五年跡迄ハ、何国之船漂流仕候とも、対馬・大坂へ送り上せ候而、大坂役人之御尋ニて相済夫・そこゝゝ江被差返候事
且又右之通対馬へ朝鮮・送り来候船を大坂迄上せ彼地ニて御尋相済候ハ、殊外無益成儀ニて段々其御沙汰有之候上、近年ハ御法改り候て大坂・下之船ハ長崎へ対馬・送り、大坂・上之船ハ大坂へ対馬・送り、御尋有之相済候てそこゝゝ江被差返相済候、十四五年以来之御法如是ニ御座候事
一、日本船朝鮮へ流され参候儀、前ニ申候通年中ニ者節々ニて御 座候、其内天下之御米船節々流され参申候、乗前を能存いか様 成作廻仕候も程難計と存候事
一、享保十二年霜月、川尻浦へ参候朝鮮之漁人申候ハ、去々年之前年朝鮮王死去ニて、新敷王立被申候と之儀ニ候、此段を新右衛門考見るに合点不参候、朝鮮王之嫡子ハ当年慥四十歳程之筈ニ候、孫譲共ニ而候哉、又ハ二男譲共ニて候哉、又ハ漁人聞損シ而申候哉と存候、朝鮮王之嫡子年長ケ候故、朝鮮王久々隠居之願被申候へとも朝鮮王隠居之例無之付赦免無之候、病身ニて被居候故、嫡子早数年政務を聞沙汰被仕候、表方ハ嫡子ニ而内輪ハ即位同前ニて候、四拾歳程之積りニて候、合点不参と之事
一、朝鮮ニて県令と申と県監と申ハ位違ひ候、県令ハ県監・卑ク 有之候、何れも日本之代官之如クニ候事
一、極楽之儀を世王と申候事
一、下例之者とも迄喪をハ行ひ候、下列之喪ハ笠を白キ紙ニ而張りかづき申候、笠かづき候儀ハ朝鮮之礼ニて候、夫を右之通ニ仕候、又ハ荒布之帯をも仕候、両条を以下列之者之喪服と仕候、上分ニ至り候而ハ喪服を着用仕候事
一、道々之惣司を観察使と申候、因茲殿様抔之御位をハ朝鮮之漁 人等之唱候ハ観察使と申が能御座候事
一、朝鮮之銭ハ皆大銭ニて候、小銭と申儀ハ無御座候事
   但銀壱匁之所へ十銭遣ひ、或ハ段々ニ違ひ廿銭迄も遣ひ申   候、所々其時々々之相場ニ依り違ひ候事
一、慶尚道常々之米之直壱匁ニ五六升、又者七升も仕候、豊年抔 之節者究而此通仕候事
一、正月之儀朝鮮と日本ハ究而其月違ひ申候、自然ニハ一同ニ相 候儀有之候へとも大形違ひ候、朝鮮ニハ本唐之暦を用ひ申候、 夫故本唐と朝鮮ハ暦同前ニ而候事
一、下列之者迄も皆氏を申候、少々左ニ記候
   鄭 朴 金 洪
一、朝鮮ニ者訳官五品有之候、本唐・日本・韃靼・蒙古・野人国、以上五ケ国へ対シ夫々訳官罷居候、五ケ国之持方、本唐へハ随ひ居候、日本も隣国船交大切之立申候、韃靼・蒙古・野人之三国ハ只交易共計仕候由、誠之交り者無御座候と相聞へ候、対交易訳官を立置候事
一、釜山あたりニて節々火事をも見申候、差而火消抔と見へ候人 も無御座候、只寄集り消し候、家之儀天井ハ大形土ニてぬり申 候、屋祢ハ瓦もかやも御座候事
一、『経国大典』と申書物、朝鮮国ニ有ル記録ニて、対馬ニも対馬守殿計被致所持候、其外ニハ一円無御座候、紙数三四十枚程有本十冊程有之候、朝鮮ニ而色々之儀を書記諸事朝鮮国治メ方之仕法を書たる書物ニ而候、日本へ之常々挨拶仕向ケハか様仕たるが能御座候、唐との参懸りいか様ニて候抔と申様成儀共も有之候、中々面白キ記録ニて候事
一、対馬之大通詞ハ朝鮮之上々官と同シ位ニ対馬・ハ仕向ケ被仕、 諸事勝手向等ニ至迄仕成シ能有之候、両国出相之時ハ上々官と 大通詞等輩之参懸りニ而諸事仕候事
一、対馬ニて大通詞七人御座候内、私儀者暇を取候而彼地を罷出、残り六人居候所ニ又其内四人相果只今両人罷居候、朝鮮在番・長崎在番、対馬ニも壱人居候ハねハ不相成、両人ニてハ頃日何とも不相成段申来候、小通詞者数多居候得共大通詞之程ニ不相成故、其場之勤之段不自由ニ候、因茲頃日ハ大通詞ことかぎ之段追々申来候、是ハ享保十三年ニ其咄を新右衛門仕候事
一、惣而対馬家中之儀ハ、家老衆・下ニ至迄、朝鮮之方之交易色 々有之故、何れも勝手能御座候、対馬ニて五百石之分限が御国 之千石程之居方ニて候、皆其通候事
一、対馬之儒者役雨森藤五郎・松浦儀右衛門抔も分限三百石ニ而 御座候事
一、各朝鮮在番仕候とても、朝鮮一切之書物又ハ絵賀等之儀ハ取 帰候儀御制禁ニ而相成不申候事
一、対馬国と朝鮮国と見渡旁之図、如此御座候
但対馬国者今三拾六丁一里ニして、南北三拾八里余、東西広キ所ハ拾里或ハ五七里  但古ハ四十丁壱里なれ共、今ハ三十六丁一里ニして之積也
 釜山浦・佐須奈迄四十八里トハ古ヨリ申候得共、弐拾里程有之 候事
 府中ヨリ佐須奈マテ三拾里余、船路ハ五拾里余有之候事
      図左ニ記之
(図1をここに挿入)
一、対馬守殿ハ中々勝手能候而上方共ニ而も西国之長者抔と申唱る参懸りニ候、朝鮮之方ニて買物、夫を被売候而之利閏毎年二万貫目ニも及候躰内福成儀ニ候、朝鮮使日本江参候時之造作と候而も、惣之御大名之三双倍も入可申候得共、度々之信使時分ニも差而痛ミ不被申候事
一、対州者只壱万石之高ニ而候得共、其当りニ而ハ無御座候、内 検段々有之候、壱岐之風本ニ蔵屋敷有之、筑前之内ニも其通有 之、京・大坂ニも有之候、惣躰之参懸小身之形ニてハ無御座候 事
一、惣而防長御両国之劃と対州御領内之劃と考見候ニ、対州も防 長御両国之三歩二之形も可有之か、凡二十万石之劃ニて相見江 候事
一、対馬之城下ハ南と東を請たる海辺ニ而候、中々能所ニて候、売買之便りも宜敷所柄ニ而、京・大坂之町人数拾人売買ニ参り五百貫目千貫目宛も銀子を持来候而、朝鮮・対馬江被買候物を又買候而上方へ取帰候、夫故対馬守殿内福ニ御座候事
一、『懲瑟録』二冊目拾枚之左ニ有之由候事

   時 久 不 雨 江 水 目 縮 曽 分 遣 宰 臣

   祈 雨 檀 君 箕 子 東 明 王 廟 猶 不 雨

右之文を以新右衛門へ問申候、新右衛門申候ハ、檀君ハ朝鮮ニて人之始り、箕子ハ周之代ニ被封候箕子也、東明王とハ今之李氏之王之元祖ニ而、明朝之洪武年中に立被申候、其元祖之王ニて名をハ吾太子と申候事
一、長州萩と朝鮮と之あわひ、左之図之如くに御座候事
(図2をここに挿入)
右之通ニ御座候、萩と朝鮮国之蔚山と向ひ合せニて候、夫故萩と朝鮮ハ殊外近ク海もせまとニて御座候事
一、野人国とハ則韃靼国を差而申候事
一、珎島ハ本之儀朝鮮之島ニて候、竹島も近年朝鮮之内之島ニ相究り候、尤参懸り之儀ハ委細前ニ記置候、昔竹島を見出候者伯州磯竹弥左衛門と申者ニて御座候、此弥左衛門儀、士か町人百姓等かをハ不存候、弥左衛門見出伯州之公儀江訴候処ニ弥左衛門ニ所務仕候様ニと被仰付数年其通ニ候処ニ、竹島ニ付日本と朝鮮之論出来仕候、前ニ書置候通、終ニ者朝鮮之鬱陵島と申ニ相究候事
一、済州之儀を朝鮮人が申候、往古此島ニ自然と男三人計居申候、 然所ニ日本・船ニて女三人并牛馬物之種抔持参候、夫・此島を致開基今之済州ニて御座候、左有て船を乗参候人ハ雲に乗り虚空江上りいつれとも智レ不申候、名誉成儀ニ候、夫故日本・之開基無疑候得共、今朝鮮国之内之島ニて候、此島日本之いろは字を遣ひ日本之はやり歌抔をもうたひ申候、広キも対州程ハ可有御座、結句夫・ハ広ク可有御座と申候事
一、朝鮮を北江往詰而聖人国と之境ニ壱里之渡り有之候、其名を 豆満江と申候、是を朝鮮口ニハ、トマンガン、ト唱申候、西・ 東江流るゝ川ニて候、是を渡りて野人国江ハ参候事
一、享保十六年之春、朝鮮船漂着候を長崎へ御送らせ被成候、其朝鮮人咄候とて松原氏申候品、朝鮮を北へ行詰豆満江とて壱里之渡り有之、是を渡りて野人国へ参候、此豆満江朝鮮国と野人国との境ニて御座候、西・東へ流るゝ川也、朝鮮国と唐との境ニ鴨緑江有こときに候、此渡り川十月・三月迄殊外氷り申候、船之渡りやミて水之上を馬ニて往来仕候事
常々江原道之雪大分ふり候所ニて、壱丈余もつミ申候、咸鏡道之者弐人江原道之者八人已上十人ニて候事
各儀韃靼人とハ常ニ交り申候、韃靼人ハ法度易りたる儀候、頭をハまハりをそり中ニ髪を残シ、夫をくミて両方江たれて居候が、母死れハ右之方をそりのけ、父死れハ左之方をそりのけ申候、父母共ニ死れハ両方共ニ皆そりて坊主之形ニ相成候事
朝鮮ニも去々年・去年迄殊之外麻疹はやり申候、日本同前ニて御座候事
一、朝鮮国広サ之儀、太閤秀吉公朝鮮陣・以前ハ、九州に四国を 添へ候程可有之と皆推量申候所ニ、右朝鮮人時分得と相知れ候て一円右之広サニて無之、凡者日本半国・ハ大キニ有之と見江候由之事
一、釜山浦日本館之前ニ絶影島と申島有て廻り七里程御座候、是 ハ牧之島ニて馬大分居申候、此島之馬ハ能馬ニて追々朝鮮之都へ送り王之御召馬ニ相成候事
且又右絶影島へ虎往て馬をくひ殺シ候、尤くひ候を人見るニてハ無之候へともくひ殺シ置たるを見て虎之くい置たりと人も知趣也、因茲釜山浦之領主・虎狩を為仕られ、壱年ニハ壱度も弐度も虎此島江往而右之通故、虎狩も壱年ニハ一度も二度も有之候事
且又右之虎狩を仕とても、虎を殺候儀ハ凡成兼申候、此島を追のけ候計也、虎此島をにけ候時藻くすを集め頭にいたゝき藻くすの流るゝ様ニして海を渡り欠申候事
一、日本館関門之前ニて毎朝市立申候、是ハ本日本館日本人之用 達之為・起たる市也、近辺之朝鮮人も買取用達仕候、専魚菜を 売申候、或ハ木綿類ニても其外も売買仕候事
一、日本館あたりにも虎ふせぎ有之候、虎ふせぎハ山之頭頂ニ高き石垣二間程も築上たる物ニ而、爰彼ニ有之候、朝鮮国中皆其通ニ有之候、只分朝鮮人之申候も中々前ニ費成儀を仕候、今此虎ふせぎを虎が飛越申候、昔ハ恐れたるニ而も可有之候得共只今中々恐れ不申候、前ニ大分之人力を費シ於只今も無詮事と諸人評論仕候事
且又虎も弓鉄砲鑓之類或剣之類を持帯し候者をハ恐れ申之由ニ候事
一、対馬ニてハ牛馬共ニ外・一円参不申候、家来内ニ下地持候衆 ニ牧を持候衆四五人も有之候、夫ニ馬大分居申候、何れも上馬 ニ相成申候、対馬守殿之牧も所々ニ大分有之候事
一、三使江戸ニて登城之時、駕篭すハり所之儀、御式台蹴はなし・三間置て駕篭すハり候ており被申候、其例格也、右之通殊之外能格ニて御座候、且又対州ニて城江三使被出候時も、江戸御城ニて之同格ニて式台蹴はなし・三間置而駕篭すハりおり被申候、対州之城ニて式台前ハ江戸御城御式台前ニ少も易度無之様ニ形をこしらへたる物候、是ハ三使を引請申時之格式之為ニ其通ニ御座候事
一、文章院様御代初正徳之信使之時、大坂ニて信使之旅館へ御城 代を上使トして被遣候時、階下迎送之儀もめ申候、其段ハ前々ニも申通候、迎送之儀を信使承引無之時此方・申方ニ、前ニ無之例とても兎角其通ニ仕候得、日本・も前ニ無之例三使下乗之所迄館伴使を被差出儀ニも候、幾・も迎送仕候得と之御事候、館伴使とハ出向ひて同道仕内へ入る役人也、右正徳時分之館伴使ニ被仰付候ハ兵庫之御領主と覚申候、信使之被申方ハ館伴使等本無之儀ニ候、不被差出候ても能候、迎送之儀者難仕と達而申はられ候得共、終ニ者迎送被仕ニ相成候事
且又御当代享保之信使時分ハ古格之通館伴使をも不被差出候事
一、常憲院様御代初天和ニ被参候三使ハ、御簾之例格違ひたるを 以、朝鮮江三使被帰候と即時流罪ニて御座候、左候而三使何れも配所ニて死被申候、此時上々官茂不残流罪ニて候が、是ハ三年程して宥免有り配所・帰被申候事
且又文章院様御代初正徳ニ被参候三使、古例ニ無之大坂之旅館ニて上使被遣候時、階下迎送り被仕例格違、且又格式悪敷御返翰を請取たるを以、朝鮮江三使被帰と即時流罪ニ而候、是も三使何れも配所ニて死被申候、此時上々官茂不残流罪ニて候が、是も三年程して宥免有配所・帰被申候事
一、有章院様御代初ニも朝鮮と之乞合しらへ段々有之、信使追付 被差越筈ニ而御座候之所、無間相有章院様薨御被成付而信使も 参不申、御当代之初メ享保之信使と申ニ相移候事
一、御当代之初メ享保信使参候前年之儀候、朝鮮・節目講定使(ナラヒ サタムル ツカイ)と云而使を差越候、対州迄参申候、天和之信使時分・正徳之信使時分も礼式之儀付もめ兎角違脚之儀令出来、終ニハ三使・上々官迄も致迷惑、例格相違仕段ケ様ニてハ不相澄事候、本年ハ信使を茂進上申儀候、夫・内ニ諸事之礼儀格式を堅メ置而其上を以信使を進る覚悟之由申越候、其段を対馬守殿・江戸江被申上、一切之格式其時堅り候而、其辻を以朝鮮江対馬守殿・返答有之候、右之通前年ニ事を相堅メ候而翌年信使差越被申候故、享保之信使時分ニハ諸格式ニもめ候儀一円無御座、日本ニも朝鮮ニも宜敷儀ニて候事
一、三使之儀三品ニて日本江被参候が、使者役首尾能相勤被帰候 而ハ本位上ケられ二品ニ相成被申候事
一、朝鮮ニても木に只多キ物ハ松木ニて御座候、何れ之山も多は へ出有之候、日本ニてから松と申て有之候木、中々多ハ無御座 候、所々間ニ有之候得共多ハ無御座候事
一、三使朝鮮・被参候時、彼方ニ記録官段々御座候、諸格式ニ殊 外念を入申候、中々かきとめ仕記録ニて少之儀も何や角やと申 候、勿論日本へ参候而帰候迄之儀以外委細書記罷帰申候事
一、釜山浦あたりニてまな鶴之直、拾匁弐拾壱弐匁或軽時ハ十匁・内ニも売り申候、黒鶴ハ弐匁五分或三匁位ニて御座候、鴨ハ二分弐分五厘三分なとゝ申位ニ御座候、右之類釜山浦辺ニ大分居申候事
一、朝鮮ニて銀子を遣ひ候儀、灰吹銀を切而遣ひ、又ハ日本・参 込候銀子をも其侭ニて遣ひ申候、就夫灰吹銀ニてハいか程、日本銀ニてハいか程と申て売買仕候事
且又灰吹銀をハ天銀と唱へ申候、天・自然とふりたる銀子と申心ニて御座候事
一、人参之儀、朝鮮ニても西北ニ当りたる土地ニ出来たるか能御 座候、釜山浦あたりハ朝鮮ニて東ニ当りたる土地故か、出来た る人参も能無御座候事
一、日本へ御買入之人参を日本館へ朝鮮之売人共か持来候、柳こりへ大分宛入て売ニ参申候、其内ニ人参之能も悪敷も入交て参候をゑり分て能キを買上仕候事
一、北参と申候ハ、韃靼之方へ寄而之土地ニ出来たるを北参と申 候、是ハ悪敷御座候、惣而朝鮮ニても悪敷人参之分、朝鮮之外ニても悪敷人参之分、右何れも菜気弱ク候故、かんぞう水へ入置菜気をつよめ申候事
一、生人参と申ハ、人参を洗ひて其上白水へ付置たる汁ニて、夫 を則かげなしニ仕たる物也、此生人参者菜気殊外ニ強過申故、病人によりてさゝハり申候、因茲人参をうむして用ひ申候、是が常世上ニ有之人参ニて熟参と申候事
一、常憲院様御代、文照院様御代、差当御当代、右御三代共ニ御 用として人参を箱植ニして朝鮮・江戸へ御取越被成、左候而御浜御殿へ植付被仰付候間、定而御浜御殿ニハ只今沢山ニひろこり候而可有御座被存候事
一、東莱者沙汰所ニて候得共、日本館ニ在番仕候者ニても常ニ東 莱へ参候儀相成不申候、其内常憲院様御代之儀ニて御座候、私日本館在番仕候比ニ、竹島之儀ニ付朝鮮と日本申結ひ段々有之、江戸・只様ニ御裁許被仰下、対馬守殿家老多田与左衛門と申人為使者日本館迄参、夫・東莱江被参候、其時私儀も付候て東莱へ参初て見申候、其時与左衛門大備ニて御座候、持鑓ハ二本道具ニて御座候、先備ニ長柄之鑓弐十本ニて御座候、鉄砲拾挺張弓五張ニて御座候、中々能備ニて御座候、右之時分私儀通詞之為ニ参候而御用相達申候事
一、日本ハ殊外結構成能国とて朝鮮人も申定ニ、唐・ハ結構成儀 と申候、朝鮮・唐へ使者ニ参候衆が則日本江使者ニ参候儀も御座候、且又唐之通詞官共も日本へ之使者ニ付て参申候、就夫右人柄達之咄をも得と承候ニ、日本ハ唐・も結構成儀多御座候、増而朝鮮者申ニ不及儀ニ御座候と之事
一、前ニも申候通、東莱へ参而見申所ニ、町屋抔大分之儀ニ御座 候、日本所々いつれニも御座候町屋之如ク、端々ハ皆わるき町屋ニて御座候事
且又東莱之町、成程能町ニて種々成物を店へ出シ置売買仕候、日本之趣ニ何之相替候儀も無御座候事
且又東莱之町屋抔も皆かやふきと瓦ふきニて御座候、そきふきハ一円見へ不申候事
一、前ニ申候通多田与左衛門へ付候而東莱へ参申候、東莱ニても 客館有之、夫ニ滞留仕罷居候、滞留之内東莱之方・下行仕候米又野菜之類或鳥獣魚類ニても追々あてがい申候、種々成物ニて其内ニ日本ニて常々給不申物交りニ下行仕候、夫を以日本料理ニ仕而給申候事
一、朝鮮王・唐へ何そニ付使者被差越候時ハ、日本へ参候と同シ 事ニて正使・副使・従事以上三使を以被申候事
一、慶尚道之内熊川(是モ浦手ニテ萩ヨリハ西ノ方大分南ヱ上リテ有所也、俗ニコモカイト云)、此所・十三人乗之朝鮮人、元文二年霜月ニ三島へ漂流、夫・浜崎へ参候、加徳島と云島へ猟ニ参而流され右之通ニ候、此朝鮮人が申たる儀を記之
一、熊川・萩江慥三日三夜ニハ走り参而候と覚候事
一、日本耕作之仕様、殊外宜敷諸事参を入申候、朝鮮ハ中々是ニ 不及候事
一、当年之閏月之儀、日本ハ霜月ニて候所ニ朝鮮之閏月ハ九月と 申候、且又冬至ハ霜月晦日ニて候所ニ朝鮮之冬至ハ日本之閏霜 月二日ニ当り候と申候事
一、万歳を覚候者壱人有之、申させ承候所ニ、御国山口・かくしやうと申て萩へ出候万歳と申言葉相ニ少も相替儀無之、色々目出度儀を取集而申候、爰を以考候、山口・出候かくじやう之万歳ハ定而琳聖太子時代・伝りて申万歳ニて可有之と存候事
一、五年跡ニ対馬守殿・江府へ被申上候、慶尚道東之海辺ニ迎日 と云所ニびんげんぎと申浪人謀叛を企て* 十)釜山・東莱・蔚山抔之役人をも同意させ追付反乱躰ニ候が、其儀顕れびんげんぎを生捕、其外段々仕置有之と也、此儀を尋候得ハ答ニ、成程左様之趣ニ承候、乍然各ハ程隔りて居候故委敷不存と申候事
一、来年ハ日本へ若君御誕生御悦之使者朝鮮・参と之儀ニ候、各 が居候あたり・も水主ニ出、或ハ籏持か様之あたり何そ角そ之役ニ出申候筈と咄候、早頓ニ・其風説御座候と相聞へ候事
一、釜山浦之日本館も則慶尚道也、日本館・熊川へ之間相、陸ハ 二日路、海上ハ順風ニさへ候得ハ一日路ニて参候事
一、萩・蔚山へ間相之儀、殊外近キ事ニて候、方角ハ真西へ当り 候、一日一夜順風ニて走り候へハ着仕る積り候事
一、日本館・先キ一里半計に石碑立て有、夫・日本人不入込筈之定めニて候得共、鷹狩抔之時分、鷹がそれ候抔と云様成かこつけニて少々先キ之方へも左右へも参込候事
且又対馬・日本館へ在番ニ参候衆、鷹をもつれ参申候、朝鮮ニても鷹を取鷹狩仕、其外色々狩等ハ仕候事
一、都而朝鮮之諸所〆り之儀
   府使  是ハ城ニ居住シテ其所ヲ治ルナリ
   牧使  是モ城ニ居住シテ其所ヲ治ルナリ、最牧使ハ府使       之下ニ立相勤申役座ニテ候事
   県令  是ハ亦牧使之下ニモ立テ治メヲ成ス役座ニテ候事
   県監  是ハ亦県令之下ニ立テ治メヲ成ス役座ニテ候事
 右之荒々を申也、凡右之趣を以治メ申候、且又万戸とハ船大持 を申候事
一、朝鮮之儀ニてハ無之候得共、席ニ咄承候故記置候、朝鮮人萩・長崎へ被送候時、浜崎・出ル道筋之儀、泰桓院様被仰付を以夫以来、御船倉・熊谷町へ通シ、夫・津守町・細工町之様行キ、片河町出、呉服町へ出、夫・順々本筋を椿町之様ニ罷出候事

朝鮮物語全部終
  宝暦三年 井上光英書之

東アジア共同体の可能性

「동아시아 문화공동체」의 가능성
-문화하이브리드(Cultural Hybrid)화론의 관점에서-

일본구주대학교한국연구센터 교수 松原孝俊

- 목 차 -

1. 문제제기와 논점
2. 모자이크상태의 한국 문화
3. 한국 정부에 의한 문화 정책의 동향:「새마을 운동」•「지역 축제」•「한국문화의 세계화」
4. McDonald 화현상을 띠고 있는 한일 문화
5. 하이브리드(Hybrid)화하는 한일 문화
6. 나가면서


1. 문제제기와 논점

(1-1)본고의 목적은 비교 문화론의 관점에서, 주로 1970년대부터 현재까지의 한국 문화의 동향을 논함으로서, 한일양국을 기축으로 전개되리라 예상되는「동아시아 문화 공동체」구축을 위해 새로운 동아시아 문화모델을 작업가설로서 제시하는 것이다. 단지, 지면 관계상, 본고의 고찰대상은 한국에 한정되어 있다는 것을 미리 말해 둔다.
 본고의 주장을 보다 알기 쉽게 전달하기 위해 먼저 결론부터 말하자면, 21 세기의 동아시아는 테러의 위협, 조류독감의 대유행, 석유가격의 상승, 지진이나 해일등의 자연재해등 많은 과제에 직면하고 있기는 하지만, 결국은 국경과 언어를 초월하여 다문화가 공존하는 「문화 하이브리드(Cultural Hybrid)」의 시대에 돌입함으로서 가까운 미래에 「문화 공동체」가 형성될 것이라고 예고해 두고 싶다. 이러한 예상을 고려하였을때, 근대 한국사회가 경험하는 문화적 이행을 도식적으로 나타내 보면 「국민 문화 육성→전통•국민 문화 보호→외래 문화의 규제→전통 문화의 Big bang→외래문화의 규제완화→다문화와의 경쟁→다문화와의 공생→문화 하이브리드(Cultural Hybrid)」가 될것으로 예상된다. 현재 동아시아에서는「트랜스내셔널리즘의 진행으로 인한 하이브리디티(Hybridity:異種混淆性)의 문화」가 형성될 사회적여건이 조성되고 있다.
(1-2)따라서 어떤 한국산의 생활문화상품, 영화, 드라마, K-Pop, 만화, 애니메이션등이 만들어 지면, 그것은 서로 치열한 경쟁이 벌어지고 있는 동아시아 문화마켓에 나오게 된다. 상품은 품질의 우수성과 흥미유발이 인정되면 살아 남지만, 불량품으로 판정을 받거나 흥미유발에 실패를 하면 도태 되고 만다.
(1-3)또한 무역, 투자, 금융등의 경제면을 포함하여, 국제테러리즘, 지진등의 비전통적 안전보장의 분야에 있어도 동아시아에 있어서의 협력과 연대는 시급한 관건이 되고 있다. 조류독감문제 하나만 보더라도 쉽게 이해가 될것이다. 이렇게 상호의존의 협력관계가 중요시되고 있는 동아시아에 있어서 2003년의 한중일삼국의 연간 무역액이 약 2,211억 달러(미국•일본간은 약 1,740억 달러), 인적왕래는 약 797만명(미국•일본간은 약 470만명)에 달하고 있으며, 이러한 점은 벌써「동아시아 경제통합의 시대」에 돌입했다고 단언해도 좋을 것이다. 물론 여기에서 말하는 경제통합이라는 것은 어떤 제도적장치를 상정하는 것이 아니라는 것을 지적해 둔다.
 이러한 국제적 상황을 고려한다면, 가까운 장래에 한중일3개국은 국민국가의 경계가 무너지거나 약해져 동아시아삼국이 「융합」을 하여 하나의 국가연합체로 진행할것이라고 예측할 수도 있을 것이다. 물론 그러한 이미지는 동아시아삼국의 이상적인 형태인지도 모른다. 하지만, 야스쿠니 신사참배문제에서 상징적으로 거론되는 전쟁책임에 관한 인식의 차이나 역사 인식 문제, 영유권 문제, 가스전개발 문제등의 에너지 자원 획득 경쟁을 둘러싼 현실을 응시하면, 한중일 3개국이 구성하는 지역연합체의 달성은 용이하게 실현될 것 같지는 않다. 최근의 매스컴들에 주목해 보면, 주로 일본이「동아시아 지역 연합체」결성의 움직임에 찬물을 끼언고 있는것 같이 보도를 하고 있다. 굳이 필자가 강조할 것도 없이 EU를 모델로 한「동아시아 공동체」형성의 전도가 밝다고는 할 수 없지만, 경제와 문화에 있어서의 동아시아의 지역통합이 멀지 않은 장래에 실현될것을 기대하면서, 이를 위한 방책을 모색하는 것이 본고의 목적이다.
(1-4)여기서 우리는 논의의 전제로서「사람, 물건, 돈, 정보, 기술」이 교차하는 보더레스(Borderlessness)시대의 도래, 글로벌사회(Globalization)의 진전, Internet등의 IT기술의 발달, 미디어의 발전, 관광(Tourism)등에 의한 사람의 이동 확대로 인해, 「한국 문화」또는 「일본 문화 」라고 하는 종래의 국가를 경계선으로서 문화를 논하는 분석틀을 적용할 수 없는 현실인식에 대한 공유가 필요하다.
여기에서 오해의 소지를 없애는 의미에서 덧붙이자면, 본고의 목적은 동아시아에 있어서의 기능/제도적 통합을 논하는 것이 아니라, 어디까지나 문화 비교론의 관점에서 「동아시아에 있어서의 인식(주로 문화) 통합」을 논의하는 것임을 말해둔다.
(1-5)먼저, 논의를 전개하기 전에 한국문화에 대한 문제 의식을 공유하고 싶다.
①2004년 현재, 서울•부산•대구•인천•광주•대전•울산의 중요 7 대도시의 인구는 전국인구의 47%를 넘고 있다(1967년의 비율은, 17. 4%). 이러한 경이적인 도시 집중율을 보이며 선진국으로 성장한 한국의 상황을 고려하였을 때, 조선왕조시대에 크게 비중을 둔「전통적 문화양식」으로 한국문화를 설명해 온 종래의 인식방법은 과연 유효할까?

<표1>2004년현재, 한국중요7대도시의 인구비율
년도 전국 서울 부산 대구 인천 광주 대전 울산 비율
2004 49,052,988 10,287,847 3,684,153 2,539,738 2,610,715 1,406,915 1,450,750 1,087,958 47%
                           <2005년도한국통계청자료>
②인터넷보급율 61%(2004년 현재), 휴대전화 가입자수 3,834만명(2005년 12월현재)의 시대에 돌입한 IT사회의 도래는 한국문화를 어떻게 바꿔갈 것인가?

③아직까지 한국문화를 설명하는 개념은, 95%이상의 인구가 농•어업 등에 종사하고 있던 100년이전의 사회를 기준으로 설정된 민속모델이 그 유효성을 발휘하고 있다. 하지만 중학교 진학율 99. 9%, 고교 진학율 99. 7%, 2년제전문대학 이상의 진학율 80. 7%, 대학생 총수 1,859,639명<2005년도 한국 통계청발표재적학생수>로 고학력/탈농경 사회로 전환된 지금, 과연 전시대적인 민속모델을 답습해야 할 것인가?
④더구나 한국민속력은 이미 농경력에서 샐러리력(일요일이나 휴일중심의 행사)이나 관광력(관광 행사에 합치한 일정이 중심)으로 변화하고 있는 현실을 고려한다면, 종래의 민속모델은 과연 한국사회의 이러한 현재들을 설명할 수 있을까?
⑤21 세기의 동아시아 시장경제를 고려했을 때, 한국•일본•중국의 다국적기업(삼성, 소니, 알- 등)의 활동들이 보여주듯이 동아시아에 있어서의 경제시장은 벌써 통합의 영역을 구축하고 있다고 생각해도 좋을 것이다. 하지만 동아시아에 있어서의 경제적인 금융통합은 이미 진행되고 있다고 하더라도, 정치적으로는 국가적 경계를 넘는 제도적 통합을 위한 길이 닫혀있는 모순된 사회적 상황 속에서, 동아시아 3국의 생활문화상품은 어떻한 형태로 개발/수출되며, 또 어떠한 형태로 공유될것인가?
(1-6)마지막으로 필자의 이론적인 근거를 밝혀두고자 한다. 이론적인 근거로서는 미국의 문화인류학이 제시해 온 「Acculturation」이론과 「Race Prejudice」이론, 그리고 「Liner model」로부터 영향을 받았다는 것을 밝혀둔다. 이들 이론이 제시해 온 diffusion→selection→Acceptance→Adjustment→Adaptation→Integration→Reaction/Contra-acculturative movement이나, Contact→Competition→Conflict→Adjustment→
Assimilation, 그리고 reaffirmation→synthesis→withdrawal→biculturalism→Construc
tive marginality→Compensatory adaptation→Interpretation 등의 도식은 필자에 있어서 매우 매력적인 설명이다. 하지만 물론 이러한 생각의 근저에 있는 백인 우월 주의나 미국 사회에 있어서의 백인화(marginal man / The Uprooted/Double Conscious
ness/Lost between two cultures)전술을 지지하는 것은 아니다. 또한 이러한 논리를 동아시아 문화에 그대로 적용할 생각은 조금도 없다. 단지 「Biculturalism」이론을 도입하는 필자의 의도는 문화 이해를 위한 「Switch mechanism」이 중요성하다고 인식하기 때문이다.

2. 모자이크상태의 한국문화

(2-1) 필자가 처음으로 한국을 방문한 것은 1972년이었다. 당시 방문의 목적은 서울이나 부산과 같은 대도시가 아닌 가능한한 많은 촌락을 돌면서 본격적인 촌락조사를 행하기 위한 사전조사(Pilot survey)였다. 그리고 필자는 이전 善生永助와 같은 민속학적 선구자들이 제시한 전형적인 한국의 전통촌락을 찾아 다녔다.
그 당시 필자가 관심을 가지고 있던 조사의 항목은 한국민속학적 텍스트에서 논의되어 오던 「마을의 역사, 마을의 배치구조, 방언, 인간관계, 집(가족)의 구성, 문중조직, 선조제사, 민간신앙과 의례, 농업과 노동교환(품앗시), 계등의 상호부조, 농기구, 식기등과 같은 물질문화, 년중행사, 동제, 식민지기의 기억, 새마을 운동, 구비전승, 샤마니즘, 풍수사상, 족보등」이었다. 그때까지만 하더라도 식문화나 아동문화, 대중문화등에 대해서는 필자의 관심밖의 사항이었음을 고백한다.
당시 일본내에서는 한국에 관한 정치적 정보(북한은 천국, 남한은 지옥과 같은)는 팽대해 있었지만, 사회문화적인 구체적인 상황을 알수 있는 정보는 거의 없었으며, 한국내에서 현지조사를 한 연구자 물론 보고서도 전혀 없는 상태였다. 그 이유로서는 먼저 당시 일본인이 한국정부로 부터 입국비자를 받아낸다는 것이 어려운 상황이었고, 더구나 1945년부터 단절된 양국의 왕래가 젊은 한국연구자를 육성하는데 장해가 되고 있었다. 이러한 사회적인 상황과 맞물려 일본국내의 한국연구자들이 1945년이후 한국사회의 사회문화적인 구체상을 접하게 되는 것은 1973년이었다.
사실 일본에 있어서 본격적으로 한국연구가 재개되는 것은 1965년 한일국교정상화 이후의 일이고, 따라서 당시 한국에 관심을 가진 일본인 연구자들은 이 20년의 공백을 1945년이전 보고서로서 메꿀수 밖에 없었다. 예를 들어, 경성제국대학에 근무하면서 한반도를 조사한 秋葉隆(1954) 나 鈴木栄太郎(1944) 등과 같은 연구자의 보고서, 또는 조선총독부가 실시한 조사보고서등을 참고로 하여 한국에 대한 정보를 입수하였던 것이다. 따라서 사회학자 秋葉隆가 영국식의 dualistic structure에 주목하여 제시한 민속도식인,

남 – 유교 – 마을제사
여 – 무속 – 집제사

이라는 분석결과는 많은 한국연구자들에게 한국을 이해하는 전형이 되었으며, 그러한 연구자들 중에 필자도 포함되어 있었다. 주지하는 바와 같이 아키바교수가 한반도 분석에 사용한 키워드는 「양반, 유교, 무당( Shamanism)」이었다. 당시 필자도 아키바의 영향을 받아, 「양반」이 사는 마을을 찾아서 「양반집」을 방문하고, 그리고 「양반]」과 인터뷰를 하며 「양반」이란 과연 무엇인가를 해명하려고 생각하고 있었다. 결국 「양반」을 안다는 것은 한국을 안다는 것이라고 믿고 있었던 것이다. 하회유씨라든가 월성손씨등, 일반적으로 이야기하는 양반적 전통이 강한 「반촌」(善生栄助에 의해 명명)을 돌아다니며 조사를 하면 간단히 한국사회 내지는 문화를 이해할 수 있다고 생각을 하고 있었던 것이다. 이러한 판단으로 당시 필자가 조사를 행한것이 양반의 전유물라고 여겨지던 족보였다. 당시 발표한 필자의 작업가설은 이하와 같은 것이었다.

족보란 시조와 출자를 같이한다는 관념을 바탕으로 부계출자라는 선택적인 기준에 부합되는 자만을 계보적으로 질서화하여 기록한 것으로, 선조제사를 의무화함과 동시에 동족의 우월성과 영속성을 주장할 수있는 근거로 삼아, 동족의 통함을 각성/강화하는 미디어적 역할을 담당하고 있다. 또 양반만이 기록할 수 있는 책자임에 따라 그 사회적 지위를 내외에 인식시키는 심볼이기도 하다.(158)

그런데, 직면한 문제는 필자가 한국연구를 시작하게 되면서 가지게 된 「양반이란 무엇인가」라는 근본적인 화두 자체를 재고해야만 할 것 같다는 생각이 들기 시작했다는 것이다. 곤란하게도 연구를 시작할 무렵에는 벌써 「반촌」이라는 것은, 사람들의 기억속에는 존재하고 있었지만, 누구하나 양반이 누구인지, 어디에 가면 양반을 만날 수 있는지 가르쳐 주는 사람이 없었던 것이다. 한국사회를 분석할 수 있는 키워드로서 양반을 택하고, 또 양반의 정의를 통해 한국사회를 이해하기 위해 양반을 찾아 마을을 방문하던 필자로서는 이러한 사회적 상황이 너무나 기묘하게 느껴졌던 것이다.
(2-2)그동안 유교적 전통을 지키는 상징적인 사고였던 「동성동본혼의 금지규정」(민법809조) 조차도 현실에 맞지않는 다는 이유로 1997년7월31일 대법원에서 위헌판결을 받음으로서 실재혼관계에 있는 남녀의 혼인신고를 받아들였다 . 그리고 1999년1월 한국정부는 8촌이내의 관계가 아니라면 부부로서의 법적지위와 권리를 공식적으로 인정하게 되었다.
이로서 족보에서 명확히 규정해 온 부계혈연집단의 유지는 커다란 영향을 받을 것이 틀림없다. 더욱이2005년 3월2일 한국국회는 「호주제도의 폐지」를 골자로 하는 「민법일부개정법률안」을 가결하였고, 부계혈연집단은 풍전등화의 위기에 놓여있다. 이 법률개정에 이르게 된 과정에는 2005년2월3일 「호주제헌법불합치」라는 대법원의 위헌판결이 중요한 역할을 하였다. 그 판결문에서는 「호주제는 성의 역할에 대한 고정관념으로서 호주를 계승하는 순위나 혼인할때 신분관계를 형성하는 것이며, 정당한 이유없이 남녀를 차별하는 제도임으로 헌법에 규정된 남녀평등과 개인의 존엄성에 위배된다」고 설명하고 있다.
(2-3) 또한 이미 크리스트교 신자가 전국민의 50%를 넘고 있는 한국적 상황에서 샤머니즘은 영원히 한국민속의 근간이며 대표선수로서 유지될 수 있을 것인가?
(2-4) 하물며 한국에 있어서의 인터넷이나 위성TV, 휴대전화의 폭발적 보급은 국경을 넘어 세계 각지의 커뮤니티를 연결시키고 있고, 이미 이러한 새로운 정보와 커뮤니케이션•테크놀로지는 한국문화의 성격 자체를 본질적으로 바꾸어 놓았다고 생각해야 할것이다. 문화자체가 글로벌 시장에서 판매/수출되거나 혹은 트랜스내셔널적인 미디어가 만들어 내는 다문화의 대중 소비 현상을 맞이하여 한국 문화를 총체적으로 이야기하는 것은 이미 불가능하다는 인식을 가져야 할 것이다.
(2-5) 이와 같이, 1970년대 이후 불과 30년이라는 짧은 시간속에서 한국은「한강의 기적」이라고 불리워 지는 고도 경제성장을 이루며, 인구의 도시 집중화 현상, 핵가족화 문제, 북미에의 이민, 국제통화위기, 해외여행의 대중화, 소자화 문제를 발생시켰고, 인터넷등에 의한 IT혁명의 길을 걷어 왔다. 이러한 점을 고려했을 때, 그 동안 한국사회를 설명하는 중요한 키워드로 인식되어 온 「양반/유교/무당(무속)」등은 한국사회를 이해하는데 있어서 거의 그 유효성을 상실하였다고 말하지 않을 수 없다.
(2-6)이제 한국을 연구하는 연구자들은 한국문화란 무엇인가에 대한 근본적인 재고를 필요로 하고 있다. 물론 이러한 문제의식은 비단 한국문화를 논할때만 국한되는 것은 아니다. 일본문화를 논하는데 있어서도 똑같은 문제의식이 필요한 것은 마찬가지이다. 국경을 초월하는 「트랜스내셔널적인 문화동향」에 직면하고 있는 오늘날, 보다 현실적인 한국을 논하기 위해 필요한 우리의 자세는 이제까지 민속학적 연구가 그러하였던 것과 같은 배타적인 입장을 취하기 보다는, 오히려 한국의 모자이크적인 문화현상 그 자체에 착목할 필요가 있다.

3. 한국정부에 의한 문화정책의 동향:「새마을 운동」・「지역축제」・「한국문화의 세계화」

(3-1) 먼저 본고에서는 1970년대부터 1990년대까지, 즉 20 세기 후반 한국의 사회문화적 변화에 대하여 한국정부가 행한 문화정책의 분석을 통해 제시해 둔다. 단지, 지면 관계상 모든 문화 정책을 고찰하는 것은 불가능함으로 본고에서는 1970년대의「새마을 운동」(Local 문화의 변용과 전환점)과 1980년대의「지역 축제」(Local 문화의 창조)정책을 중심으로 설명을 할 것이다. 만약을 위해 덧붙이자면, 1945년부터 1965년에 이르는 시기, 즉 주로 이승만대통령 시대에 있어서의 반일/반공 문화 정책 등에 대해서는 본고에서는 언급하지 않는다.
(3-2)첫번째로 1970년대부터 전국적인 사회개혁운동으로 행해진 「새마을 운동」에 대해서 설명한다. 지금에 와서 생각해보면 믿기 어려운 이야기가 되어 버렸지만, 1961년 7월 박정희소장이 국가재건최고회의의장에 취임할 당시(1962년 12월 신헌법공포<제3공화제>, 1963년 10월 민정이양, 대통령선거에서 제5대대통령으로 취임), 한국의 일인당 국민소득은 필리핀 보다 낮은 수치였다.

<표2> 일인당 국민소득 단위:달러
日本 韓国 北韓 Philippine
1958 320 121 190 198
1960 760 120 330 150
1965 1920 250 450 210
1970 4450 580 380
1980 9020 1450 710

경제학분야에서 자주 이야기 되고 있듯이, 한국의 경제 발전은 1965년이후에 시작된다. 이 1965년의 특기할 만한 사건으로서는 한국이 베트남에 참전을 하고 한일 평화조약이 체결된 해이기도 하다.
박정희는 대통령취임후, 1962년 경제5개년 계획의 실시에서 상징적으로 나타나듯이, 빈곤의 극복, 경제재건에 전력을 투구하고 이러한 정책의 연장선에서, 공무원부패추방등을 통한 근대화정책에 착수함으로서 한국사회의 근본적인 개혁을 꾀하였다. 하지만 역시 한국사회의 근본을 뒤흔드는 역사적사건은 1970년 4월22일 한해대책을 숙의하기 위해 소집된 지방장관회의에서 농촌재건운동의 일환으로서 구상된 「새마을 운동」이다. 그 당시 전국의 거의 모든 농촌은 소작제도의 잔존, 농업규모의 영세성, 많은 실업자의 존재등, 많은 문제들을 안고 있었다. 대통령령으로 실시된 새마을 운동은 한국경제사회의 기간산업으로서 농업과 어업이 차세대에 계승될 수 있도록 농업의 체질개선을 추진하고, 효과적이며 안정적인 농업경영을 행함으로서 산업발전의 기초조건을 정비하려는 목적으로 가속적으로 실시되었다. 자립, 근면, 협동」을 슬로건으로 하여, 전국적인 규모로서 행해진 이 운동은 관이 주도하여,
1)소득격차의 해소와 농어업경영소득안정
2)근대화정신의 계발과 정착
3)농어촌의 생활환경개선, 도로등의 정비를 목표로 하여 공적자금이 투입되었다. 이 국가적인 프로젝트는 농촌개발의 성공예로서 국제적으로도 유명하다. 덧붙여서 2005년10월 중국정부는 11차경제개발5개년계획(2006년-2010년)속에 「신농촌운동」의 추진을 포함시켰다. 이것은 새마을 운동을 중국말로 표현한 것에 불과하다(중앙일보 2006년2월14일).
(3-3)필자가 보고 들은 1970년대초 경상북도일대의 농촌은, 날이 지나면 지날수록 마을내의 도로가 개량/보수되고, 초가지붕이 기와/슬레트지붕으로 바뀌고, 새마을 창고의 건설을 위한 작업들이 행해지고 있었다. 뿐만아니라, 마을내의 의식개혁운동이 전개되어, 전근대적 정신이라는 명목으로 「미신」으로부터의 탈피라든가, 무당추방운동등도 실시되고 있었다.
고수입형산업의 전개을 꾀하기 위하여 기계화의 촉진, 신품종/신재배법/신규작물의 도입이나 농지관개시설의 정비, 작업의 능률화/쾌적화등에 의한 고품질/고효율의 생산체계의 확립등이 적극적으로 추진되었다.
그 결과, 농촌의 많은 부분이 크게 변모하였고, 당시까지 지배적이었던 수도작중심의 생활曆이 변화하여, 사람들의 재래적인 생활형태는 급속히 파괴되고 있었다. 특히, 경부고속도로변의 농가들은 우선적으로 저금리의 주택융자를 받을 수가 있었던 덕분에, 다양한 색체로서 도시풍의 현대주택으로 변모되었고, 이는 한국을 찾는 외국관광객을 놀라게 하였다. 그 전형적인 예로서, 많은 관광객이 통과하는 경부고속도로 경주인터체인지 부근에 계획적으로 건축된 시멘트로 만든 전통적인 한옥풍가옥을 들수 있다.
(3-4) 한편, 1970년대 박정희정권은 적극적인 외화/기술도입정책이 전개하고 수출주도형정책으로서 [한강의 기적]이라고 불리우는 고도성장을 실현하고, 마산과 구미등에 공업단지를 건설하였다. 이에 사람들은 현급수입을 찾은 결과, 마을을 벗어나 도시나 공업단지로의 이주가 끊임없이 이어졌다. 도시의 고용기회가 확대됨에 따라 고수입형농촌경영의 꿈을 포기한 젊은층의 도시집중화 현상이 발생하였고 이는 농촌의 과소화와 노령화를 가속시켰다. 이시기 60세이상의 농림수산업취업자수는 63년에서 65년사이에 5.1%였던 것이, 80년에는 11.2%로 늘어났으며, 2000년에 이르러서는 45.7%로 증가하였다.

<표3>년령계층별 농림수산업취업인구 
년령계층별농림어업취업인구    80  85  90  95 2000
15~59세 N 천명 4,134 3,169 2,471 1,619 1,255
60세이상 O 천명 520 564 766 915 988
15~59세 N/G % 88.8 84.9 76.3 63.9 58.1
60세이상 O/G % 11.2 15.1 23.7 36.1 45.7
농림어업취업인구/농가인구            
15~59세 N/L % 64.0 60.6 60.2 55.5 56.1
60세이상 O/M % 45.7 47.9 64.5 72.9 74.1
자료:한국농림부『농림업주요통계』2001년. 한국통계청『2000년농업센서스』2003년.<深川博史교수제공자료>

공업화사회의 도래는 정부조직을 거대화하고 거대기업의 등장을 초래하였으며, 정부와 기업은 적극적으로 농촌유출인구(탈농=세대유출)를 흡수하였다. 그리고 이러한 농촌노동력의 도시유출은 당연히 농촌에 심각한 노용력의 부족과 고령화현상을 가져왔던 것이다. 1970년대후반이 되어 농촌에서는 농번기 일손부족 현상을 가져왔다. 이는 1960년대까지 농촌의 과잉노동력문제가 정부의 골치거리였다는 것을 생각하면, 짧은 기간동안 농촌에 얼마나 많은 변화가 있었는지를 알수 있다. 1985년 당시, 서울, 부산, 대구, 인천, 광주등, 5개도시의 인구 배율이 전국인구의 43.7%를 넘고 있었다. 1967년의 동일5개도시인구비율이 17.4%였다는 것을 생각한다면 도시집중비율의 증가는 경이적이다. 사실 공업화의 진전과 함께 이농인구가 도시 또는 그 주변에 집중하는「과잉 도시화」(Over-urbanization)현상은, 마닐라, 쟈카르타, 방콕등의 예에서도 확인되는 현상이기는 하지만, 한국의 도시집중율은 경이적이다.
(3-5)이렇게 하여, 가족/친족관계가 각지에 확산되고, 근무시간에 구속된 봉급생활자가 나타나게 되었다. 그리고 이러한 사회적 변동에 의해, 그 동안 농촌에 기반을 둔 생활스타일과 의식이 변화되었고, 각 개인이 각자의 주관적 만족으로서 행동을 하게 됨으로서 가치관의 다양화를 가져오게 되었다. 더구나, 여성의 사회적 진출이 활발해지고, 여성의 권리에 있어서도 많은 부분이 인정을 받게 되었으며, 이로써 가족의 역할도 변화하게 되었다. 전통적인 선조제사를 지내는데 곤란이 발생하였다는 것은, 그 상징적인 예일 것이다.
여기에서 현재 한국에서 급증하고 「독신생활자」데이터를 제시한다고 하더라도 논리전개에 무리는 없을 것이다.

 <표4 >한국의 독신생활자수
년도 전체세대수 독신생활자수 전체비율(%)
1985 957만세대 66만세대 6.9
1990 1135만세대 102만세대 9
1995 1295만세대 164만세대 12.7
2000 1439만세대 222만세대 15.4

 이상과 같이, 한국 사회에 있어서 젊은세대를 중심으로 하여 증가하고 있는 「독신생활자」의 현황에서 「집단에서 개인」으로 이행 하는 의식 변화의 징조는 확실히 드러나고 있다고 말해도 좋을 것이다.
한마디로 이야기 하자면, 공업화와 도시화가 진전된 한국사회에서는 「사람들 모두가 바빠졌다는 것」이다. 사람들의 가치관도 크게 달라져 한국경제가 고도성장을 일구어내는 과정에서, 토지와 주식은 중장기적으로 반드시 오르는 것이라고 하는 「토지와 주식신화」가 만들어졌고, 또 소비수요는 반드시 확대된다고 하는 「소비확대신화」등이 등장해, 점차 머니게임에 흥청이는 도시민이 출현하므로서, 1970년대이후의 한국적 상황은 1960년대까지의 척도로서 측정불가능할 정도로 한국사람들의 의식은 크게 변화하였다.
(3-6)고향집의 안방에서는 할머니가 손자손녀에게 전해주는 옛날이야기가 들리지 않게 되었으며, 가끔씩 걸려오는 전화수화기를 통해 손자손녀의 목소리를 듣게 되었다.
또 각 지역의 향토문화(Local문화)는 크게 변하였다. 필자는 농촌에서 도시로 인구가 이동함으로서, 농촌의 과잉노동력문제가 해결되고, 농촌의 소득수준이 상승하기 시작하는 1970년대를 「Local문화의 전환점」이라고 부르기로 한다.
(3-7)두번째로 1980년대부터 활발해진 「지역축제」로 시점을 바꾸어 보자. 향토문화제에 대해 일본에서도 소개되고 있는 것을 중심으로 그 대표적인 것을 나열해 보면, 「고싸움 놀이」(광주 1월), 「3.1문화재」(영산시 3월), 「진도영등제」(진도4월), 「춘향제」(남원5월), 「전주대사습놀이」(전주6월), 「신라문화제」(경주10월),「안동민속제」(안동10월)등이 있다.
(3-8)현재, 한국전국문화원연합회의 홈페이지(http://www.kccf.or.kr/)등을 참고로 2005년현재 한국에서 실시되고 있는 지역축제현황을 파악해 보면 약 830개에 달하는 지역축제가 행해지고 있다. 이러한 것을 기초로 하여 몇가지 통계데이터를 작성하다보면 다음과 같은 특성이 발견된다.

1)지역사회에 있어서의 전통문화의 재발견, 보호, 육성, 재정립 ― 국가에 의한 전통문화의 관리.
2)민족적 아이덴티티구축을 목적으로 지역축제가 조직된것 ― 신라문화재, 삼일문화재등.
3)전통문화에 중점을 문화형태가 강조되고 있다는 점 – 일본를 포함한 외부 문화에 대한 규제로 인한 외부문화에 대한 사회적 거부감이 등장

이상과 같은 필요성에서 정부는 옛부터 전래되어 온 것이라고 믿고 있던 토착문화를 무형문화재로서 지정하고 많은 보조금을 투입하는 등, 지역축제를 보호하기 위해 많은 노력을 행하였다. 다른 한편에서는 문화재위원이 중심이되어 많은 민족문화재를 창조하였으며, 더구나 그것을 문화재로서 지정하기도 했다는 것 또한 간과할 수 없을 것이다. 결국 무엇이 전통문화인가를 거론하는 것보다 한국사회에서 어떠한 문화사상이 전통문화로 인식되어 가는가 하는 전통문화의 정착과정에 주목하는 것이야말로 현실의 한국사회를 파악할수 있는 길을 제공해 줄것이다.
(3-9) 앞서 지적한 항목이외에 지역축제의 특징으로서 지적할수 있는 것은,
1)국민문화를 구성하는 제지역문화의 발견에 공헌한다는 것.
2)타지역 이해에 도움이 되고 나아가 지역대립감정을 완화할 수 있다는 것.
3)1961년 8월에 재정된 관광산업진흥법이후, 관광산업의 상품화에 활용가능 하다는 것.
4)타문화와 차이를 제시하면서 이것을 적극적으로 선전하여 외국인관광객유치에 적극적인 재료로서 활용가능 하다는 것등도 있다.

(3-10)특히 필자와 같은 일본인에게 있어서는 각종 출판물이나 텔레비젼광고를 통해 선전되는 이러한 지역축제는 한국의 이미지를 형성하는데 강한 영향력을 가진다. 그 구체적인 사례를 제시해보자. 충청남도 부여시에서 10월에 개최하고 있는 「백제문화제」가 일본에서는 다음과 같이 소개되고있다.

「백제문화제:고풍적인 행렬에 백제왕조의 꿈과 로망이 피어난다. 일본문화의 원류라고 말해지고 있는 백제문화. 그 부흥을 위한 충청남도 최고의 행렬에서 화려한 역사적풍경을 즐길수 있다. 백제왕비와 공주선발대회, 백제육왕의 추모식, 신성한 색깔의 의상과 당시를 생각케 하는 가마가 볼거리인 왕족의 행렬, 불꽃놀이, 궁도대회가 유명하다」 (『韓国の旅』한국관광공사 2001: 19 일본어판).

여기에서 백제왕비의 의상이나 백제인에 의한 퍼레이드가 현대인이 만들어낸 창조적
인것이라고 비난하는 것은 적절하지 않다. 오히려 백제문화를 「관광자원화」 함으로써 국내외의 관광객에게 다른 지역과 차별화를 꾀하고 그 이미지를 정착시킴으로써 집객력을 높이려고 하는 문화생성과정의 현실적인 의도에 주목해야 할것이다. 위에서 소개한 관광팜플렛에 명확하게 기재되어 있는 「백제문화 그 부흥을 위한 충청남도 최대의 행사」라는 문구에서 행정측이 의도하는 「전통회귀형지역진흥책」이 결국 「전통문화의 부흥」=「전통문화의 창조」를 유발하였다는 것을 충분히 확인할 수 있을 것이다.
도시나 외국으로 부터 관광객을 받아들이는 부여시민들의 입장에서는 비록 일주일간의 짧은 관광행사라고 할지라도 행사에 투입된 정부등에 의한 공적보조금이나 관광수입은 지역경제활성화를 이룩하는 윤활유가 되고 있을 것이다. 더욱이 지역진흥책의 일환으로서 다양한 민속행사나 역사적지식을 관광자원화 하면서 사람들은 지역적일체감을 다지고 사회적 통합의 중요성을 깨닫게 된다. 또, 그것은 아이들을 가르치는 교육의 장이 되기도 한다.
(3-11) 더욱이 강조해 두고 싶은 것은, 전술한 것 처럼, 1985년에 벌써 5대도시의 인구집중비율이 전인구의 50%에 가까웠다는 것은 생각하면, 고향상실자들이 도시에서 농촌에 일시적으로 귀향하여, 농업적 삶과 농업력을 즐길 수 있는 감각을 지역축제가 제공하고 있다. 그것은 노스텔루지아를 제공하는 장소이기도 하며, 더욱이 이농자의 자식들에 있어서는 부모들에게 들은 「고향」, 또는 그림책에서나 본「고향」을 체험하는 역할도 하고 있다고 말할 수 있다.
(3-12) 원래 지역축제라는 명칭은 중심(도시) – 지역(농촌)의 대립관계를 전제로 하고 있다. 따라서 이 용어가 생성되는 사회적 배경에 도시(중심)의 출현은 필요불가결한 것이라고 생각 했을때, 이 용어의 사회적 생성자체가 한국사회의 변화를 대변해주는 하나의 상징적인 의미를 지니고 있다고도 말할 수 있다.
(3-13) 1995년 지방자치제의 본격적인 시행을 계기로 하여, 지방자치단체는 지역활성화 정책의 일환으로서 관광사업에 적극적으로 관여하게 되고, 이로써 관광자원과 문화자원의 개발이 행해지게 되었다. 「1994년의 한국방문의 해」등과 같은 국가의 정책적인 추진도 있었지만 다른 원인으로서 이하 열거하는 이유들을 생각할 수 있다.

1)마이카시대에 도래 ― 전국 5시간시대가 실현되므로서 집객능력이 높은 관광자원이 필요해졌다는 것― 한국의 재발견.
2)지역의 고유성,독자성의 창출.
3)지역홍보를 위한 축제의 급증.
4)일본의 오이타(大分)현이 제창한 1촌1품운동의 도입에 의한 상품가치의 개발등에 의해, 향토문화의 전람회역할을 하던 향토문화재는 급속히 지역축제로 변모하게 되었다.결국 보는 축제였던것이 구입하는 축제로 변화하였고 나아가 체험하는 축제로 변화해 나가는 듯한 예감을 준다.

(3-14)20세기말, 문화시장의 메카니즘에 정부가 과잉개입이라할 만큼 강력한 규제와 특전을 부여한 결과, 전국의 지역축제중에서 상품화된 향토문화는 그 후 「진열장」에 장식되고 화려하게「Display」되므로서 새로운 형태와 구조가 정착하게 되었다. 이는 1960년대부터 시작된 토착문화에 대한 사회적 관심이 한국근대사의 시간축에서 변화를 거듭해 왔다는 것을 의미한다. 예를 들어 이러한 변화의 축을 가장 여실히 보여주고 있는 것으로 강릉단오제를 지적 할 수있다. 강릉단오제는 한국근대의 문화정책속에서, 토착문화에서 전통문화화로 이행하며, 그후 국민문화에서 세계문화유산으로 상승을 거듭하였다. 놀라운 것은 토착문화에서 세계문화유산이 되는 과정에 그리 많은 시간이 걸리지 않았다는 것이며, 이는 국가가 문화정책에 깊게 관여한 결과의 산물이라고 말할 수 있을 것이다..
(3-15)우리가 인식해야 하는 것은 1970년대부터 1990년대까지 한국정부의 문화정책은 「문화육성」 – 「문화보호」 –「문화규제」에 의거한 것이라는 것이다. 1990년대 한국정부는 세계시장에 한국제품의 진출을 꾀하기 위하여, 진출의 첨병으로서 세계각지에 한국문화를 소개하는데 노력을 기울였다는 것을 상기해 보자. 한국문화의 세계화라는 슬로건이 그것이다. 한국제상품의 수출은 이러한 한국정부에 의한 문화정책위에서 활성화되고 있다. 강릉단오제가 세계문화유산이 되는 과정에 있어서도 전술한 정부차원의 문화정책이 직/간접적으로 영향을 끼치고 있는 것은 자명하다.

4. McDonald화 현상을 띠고 있는 동아시아문화

(4-1)1945년이후, 동아시아의 한국과 중국은 민족문화의 형성을 위한 강력한 문화정책을 실시하여 왔다. 민족문화라는 것은 가능한한 특수하고 개별적인 것이 대전제가 되었다. 이로서 사회적으로는 강력한 내셔날리즘을 창조해 내게 되었다. 예를 들면, 박정희정권에서 건립한「이순신」을 모시는 현충사가 내셔널리즘을 강조하기 위한 전형적인 사례이다.
(4-2)그런데, 최근 수십년만에 세계는 전혀 다른양상을 보이고 있다. 점보제트기가 세계를 날고, 대륙과 대륙이 전화선으로 연결되고, 화페가 국경을 넘어 자유자재로움직이고 있는 현재, 세계 각민족의 생활양식과 문화가 영원히 획일화되고 균질화될 것이라고 생각하는 것은 과연 합리적인 사고인가? 미국에서 발신된 서방의 문명이 위성방송을 매개로 하여 러시아등 동방세계에 유입됨으로서, 십수년전에는 베를린에 구축되어 있던 강력한 동서의 벽마저 붕괴되어 냉전시대가 종언을 고하였다.
(4-3)이렇게 글로벌화의 진행되는 속에서 기업은 세계를 시야에 넣고 보다 효율적이고 수익성이 높은 지역에서 사업을 전개하게 된 결과, 코카콜라, 펩시콜라, 맥도날드, 마이크로소프트사의 컴퓨터의 기본소프트(윈도즈)등이 세계시장을 점유하고 있는 것은 이미 잘 알려진 사실이다. 물론 한국도 예외는 아니다.
 보다 구체적인 내용을 맥도널드의 예로서 설명한다. 2002년의 단계에서 맥도널드는 세계 121국에 진출해 있고 약 3만 점포를 보유하고 있다. 일본의 경우 3,867 점포(2003년 현재), 한국은 324점포(2001년 현재)가 진출해 있다. 세계 어느 맥도널드에 가더라도 동일성을 강조한 규격화된 형태로서 손님을 맞이한다. 예를 들면, 동일한 마크, 표준화 된 점포 디자인, 균일한 서비스(예를들면, 손님에 대한 규격화된 인사법, 주문접수, 주문품의 내용물, 상품제공, 지불방법, 손님에 대한 감사의 표시등), 동일한 메뉴(Big Mac, Mc shake등), •사이즈, 질, 유니폼, 식기이외에도 공장에서 대량생산된 냉동식품의 사용과 손님의 웨이터화(손님이 스스로 주문을 하고, 스스로 쥬스를 따르고, 음식을 나르고 청소를 담당하는 것)등을 우리는 용이하게 경험할 수 있다. 맥도날드사는 이러한 기업이념을「QSC&V이념:Q(Quality=신뢰할 수 있는 품질, S(Service=빠르고 기분 좋은 서비스, C(Cleanliness=청결하고 쾌적한 환경, V(Value=부가가치」이라고 부른다.
 중요한 것은 맥도널드가 도입한 이러한 판매 시스템이 그 후 많은 패스트 후드산업에 영향을 주었다는 것이다. 한국과 일본의 롯데리아나 버거킹과 같은 햄버거숍이라든지 Denny's등과 같은 훼미리 레스토랑, 그리고 세븐일레븐과 같은 편의점등이 그 전형적인 사례이다. 더구나 이러한 판매시스템은 주로 젊은이들을 중심으로 한 의식구조를 바꾸어 놓았다는 것을 간과해서는 안될 것이다.
이러한 현상들을 사회학적으로 분석한 George Ritzer는 막스웨버의 합리화이론 - 예측 가능성, 효율성, 계산가능성, 제어력의 가속적 증대, 비합리성 – 을 도입하여 현대사회와 문화의 「Mcdonaldization」을 논리적으로 설명하고 있다(George Ritzer 'The Mcdonaldization of society'pine forge press, 1993.).
(4-4)갈색으로 염색한 머리칼, 귀에는 귀걸이, 왼쪽손에는 햄버그, 오른쪽 손에는 핸
드폰, 바지는 청바지, 신발은 운동화를 신은 젊은이들의 모습을 일본 뿐만아니라 한국과 중국의 도시사회에서 쉽게 발견할 수가 있다. 집에 돌아가면 포켓몬스타, 닌텐도(게임보이), 슈퍼마리오등의 게임을 즐긴다. 텔레비전게임과 슈퍼훼미콘은 국경을 넘어 언어에 구애받지 않고 동일한 시간을 보내고 있는 어린이들의 모습은 세계각지에서 발견된다. 생활문화에 있어서 이러한 경향은 세계적으로 빠르게 확산되어 젊은이들의 획일화를 더욱 부추기게 될것이다. 이러한 생활문화를 즐기는 젊은이들의 이유는 단지「멋있으니까」, 「재미있으니까」, 「싫증나지 않으니까」라는 아주 짧은 답변들 뿐이다. 그들의 장황하게 설명하지 않으며, 숭고한 철학등을 가지고 있지 않다. 하지만 젋은 이들은 이러한 말을 구사해 기성 세대에 도전을 하고 있다.
(4-5)몇년전부터인가는 확실치 않으나, 세계각지에서 [드래곤볼]이나 [마징가 제트]와 같이 벌써 일본에서는 유행이 지난 어린이프로가 방영되고 있다. 물론 영어, 중국어, 스페인어, 이탈리아어, 한국어등 다양한 언어로서 방영이 되다 보니, 이 애니메이션이 어느나라에서 만들어졌는지에 대해서는 의문도 품지 않고 또 알려고도 하지 않는다. 또한 그 원작지를 알지 못할 정도로 등장인물이나 무대등이 지역에 맞게 새롭게 만들어 지고 있다. 한국의 경우에도 「우주소년 아톰」에서 최근에는「짱구는 못말려」까지 일본제 애니메이션이 아이들사이에서 인기를 누리고 있다. 또 미야자키 하야오 감독의「바람계곡의 나우시카」(1984년), 「이웃의 토토로」(1988년), 「원령공주」(1997년)등이 아이들의 사이에서 조용한 붐을 만들기도 하였다.
(4-6)사실 이와는 대조적인 만화영화가 아메리카인에 의한 아메리카인을 위해 만들어진「스누피」이다. 전통적인 미국인 기질을 배경으로 하여 만들어진 이 만화영화는 20세기 미국적 소비주의의 세계진출과 함께 세계각지로 확대되었다.
(4-7)여기에서 잠시 시점을 바꾸어 글로벌사회가 초래한 문화현상에 대해 비판적인
문제제기도 필요함을 지적해 둔다. 첫번째, 어린이들이 만화영화를 즐기고 있다고 한다면, 성인들은 CNN을 보는 습관을 가지는사람들이 늘어나고 있다. 여행숙박처의 대부분의 호텔등에서 위성방송이나 케이블텔레비젼을 통해 CNN을 무료로 수신할 수 있게 됨에 따라, 이 CNN에서 흘러나오는 보도가 「균일화된 사실」을 만들고 있다. 물론 단순히 균일화된 사실을 만든다는 이유만으로 비판을 하는 것은 그리 생산적이지 못하다. 하지만 문제는 현실적으로 아메리카합중국의 국익을 우선한 보도규제 속에서 뉴스가 선별되고 사실이 왜곡되고 있다는 것이다. 또 영어를 전제로 한 커뮤니케이션/네트웍을 만들고 있다는 것에도 주목할 필요가 있다. 과거 영국의 BBC방송이 그러하였던 것 처럼, 아메리카의 CNN방송 또한 영어로 커뮤미케이션이 가능한 사람들이 만들어내는 「집단적 진실」을 만들어 내고 있다. 아메리카를 보도의 발신원으로하는 「영어제국주의」라든가 「문화제국주의」라고 불리워지는 용어들이등장하기까지는 그러한 용어들을 뒷받침하는 확실한 이유가 존재하는 것은 틀림없는 사실이다.
(4-8) 두번째, 현재 「풍요」의 상징으로서 세계경제가 글로벌화를 강조함에 따라, 「도상국」 또는 「미개」, 「秘境」 이라고 불리워지는 지역에까지 「개발원조」 또는 「경제원조」라는 명목으로 자금제공이 이루어짐으로써 Digital-Media가 전세계로 확산되는 경향을 보이고 있다. 하지만 이러한 경향은 영어를 매개로 한 정보와 시스템의 획일화현상을 구축/ 침투시킨다는 것은 간단히 예측할 수 있다.
(4-9)세번째, 2001년11월, 미국동시테러사건을 계기로 하여 발생한 아프카니스탄 전쟁은 세계에서 가장 풍요한 나라인 미국뿐만 아니라, 세계에서가장 가난하다고 하는 아프카니스탄과 탈리반정권도 Digital-Media를 통한 정보전을 연출하였다는 것이다.
이러한 디지털메디아의 획일적인 보급은 양극단의 획일적인 사실을 만들어 냄으로서 세계적 긴장관계를 구축하고 있다는 것 또한 지적을 해 둘 필요가 있을 것이다.
(4-10)이러한 글로벌리즘의 폐해를 다룬 것으로는, James L. Watson이 맥도날드식의 글로벌리즘에 저항하는「로컬리즘」의 실태를 보고하고있다. (“Golden Arches East:Mcdonald's in East Asia ”Sanford University Press, 1977). 또한, 일본의 테리야키버거, 인도의 양고기 버거, 그리고 맥너겟 등은, 글로벌리즘과 지역주의의 충돌을 의미하는 좋은 예이다.
(4-11)글로벌화가 진행되는 현재, 다문화주의가 강조되는 사회적 배경은 민족이나 국가단위로 파악되고 있는 고립적인 문화관을 비판하고 문화를 상호교류적인 어스펙트로서 고찰하려는 학문적 풍토에 의한 것이다. 아울러 컬츄럴 스터디가 강조하는 것처럼 서양 문명 중심의 문화관을 비판하고, 문화적 평등을 강조하는 입장이 등장하였다는것 또한 지적해 두지 않으면 안된다.

5. 하이브리드(Hybrid)화하는 한일문화

(5-1) 20세기말 부터 현저하게 나타나는 현상 중의 하나로서, 한일의 문화시장은 커다란 역사적 변화를 경험하고 있다.
(5-2) 그 서막은 2000년 1월에 일본에서 상영된 「쉬리」에 의해서였다. 영화 「쉬리」는 이미 한국에서 250만의 관객동원에 성공하였고, 일본에서도 당초 수입배급회사의 예상을 뒤업고 110만의 관객을 동원하며 대히트를 하게 되었다. 그리고 수차례 텔레비젼을 통해 소개되었다. 쉬리가 일본에서 이렇게 성공한 이유는 단순히 「재미있기 때문」이다. 제작자는 그 의도를 한반도의 특수한 정치사항인 남북의 대립이라고 테마로 했다고 하였지만, 영화를 본 일본의 관객들은 이구동성으로 「템포의 빠름과 스릴에 흥분했다」고 이야기하였다. 예술적 완성도가 높은 일류의 작품이라면, 일본의 젊은이들은 「한국」이라는국적을 전혀 의식하지 않는다.
한편, 2000년 8월에는 서울에서 약 만명의 관객을 앞에 두고 일본인그룹인 「챠게와 아스카」가 일본어로 콘서트를 행함으로서 국내외에 화제가 되었다. 또 2000년에서 2001년에 걸쳐, 한국내에서 공개된 일본영화 「Love Letter」에 등장하는 대사중의 하나인 「Ogenkidesuka(건강하세요?)」는, 비록 일본어를 모르는 젊은이들에게도 깊은 인상 남겼다. 서울의 어떤 대학에서 행한 앙케이트에 의하면, 총인원 125명 중 118명이 「Ogenkidesuka(건강하세요?)」라는 대사를 안다고 대답했다고 한다.(2001년 조사)
(5-3) 벌써 영화나 음악, 패션등 많은 분야들이 한일의 문화시장에 있어서는 바다를 건거 하나가 되고있고, 자유로운 시장 메카니즘이 구축되고 있다. 한일의 인터테이먼트분야에 있어서, 한일 최초의 프로젝트에 의해, 일본인 두명과 한국인 한명으로 결성된 Y2K라든가, 한국,일본, 중국 국적의 3명이 결성한 그룹 SES, 그리고 가수 보아의 활약은 엔터테이먼트세계에 있어서, 확실하게 양국의 거리가 가까워지고 있다는 것을 이야기해 주는 하나의 좋은 예이다. 만약 시대를 거슬러 10년전쯤이라면, 한국최고의 공연장인 세종문화회관에서 일본인이 라이브콘서트를 하리라고는 전혀 상상할 수도 없었을 것이다.
말할 것도 없이 일본에서 활약하는 조용필, 김연자, 보아등이 인기를 누리고 있는 것은 그들이 한국인이라서가 아닌, 그들이 가진 음악성을 높이 평가하고 있기 때문이다.
(5-4) 여기에서 주목할 만한 것은, 한국에 있어서 한일 문화교류의 벽이 공식적으로 무너졌다는 것이다. 1998년 10월에 한일정상회담에서의 공동선언을 기초로 하여, 당시 김대중대통령은 일본대중문화개방을 선언하였고, 이로써, 영화, 비디오, 만화등의 일본문화가 개방되기 시작하였다. 이러한 시대적 배경을 등에 업고, 1999년 3월에 한국의 일간스포츠신문은 일본만화를 연재하였다. 2000년 6월에 한국정부에 의한 추가조치가 발표되어, 일본민요 콘서트도 전면적으로 해금되었고, 만화영화의 일부상영도 허가되었다. 하지만, 아직 일본 민요 CD의 판매는 금지되어 있는 상태이고, 텔레비젼등과 같은 메스컴에서는 일본의 오락프로그램등의 방영또한 허용되지 않고 있다.
주지하는 바와 같이, 일본에서는 한국문화에 대한 문화규제가 없었고, 이로서 쌍방향의 문화적흐름을 방해하는 것은 원칙적으로 거의 없어진 것이 되는 셈이다.
이 한일쌍방향의 흐름을 저지하는 장벽이 없어진 사례로서 일본에서 제작된 영화, 드라마를 원작으로 하는 한국드라마, 영화등이 제작되기 시작되었고, 한일양국이 스토리를 공유하기 시작했다는 점을 지적해 두고 싶다. 예를들면, 「세계의 중심에서 사랑을 외친다」는 한국영화 「파랑주의보」로, 일본텔레비젼드라마 「Pure soul-네가 나를 잊어도」는 한국영화 「내머리속의 지우개」로 리메이크되었다.
이러한 사회적 상황을 고려하면, 현재 한일간에 행해지고 일부문화에 대한 정치적 규제는 과연 앞으로 얼마나 그 유효성을 발휘할 수 있을 것인가하는 의문을 갖게된다. 한일간의 지리적인 근접과 사람들의 빈번한 왕래, 그리고 위성방송을 통한 일본 방송의 유입에 인터넷의 출현등은 이러한 규제들을 이미 형골화시키고 있다고 해도 과언이 아닐 것이다.
(5-5) 이러한 관점에서, 현재 동아시아의 엔트테이먼트부문을살펴보면, 잡지나 광고, 텔레비젼분야에서 중국이나 홍콩, 일본, 한국출신의 「아시안 탤렌트」의 모습이 등장하고 있고, 이러한 점등에서 벌써 문화는 탈국경화가 시작되어 「유동화」의 과정을 걷고 있다고 말할 수 있을 것이다.
(5-6)이전 중국과 한국등 동아시아 각국에서는 異문화(일본문화등)의 유입규제가 실시되어왔다. 하지만 국제적인 문화활동과 자본이동이 활발해짐으로서 문화를 둘러싼 환경이 보다 글로벌화되고 경쟁상대가 일국에 그치지않고 전세계가 라이벌이 되었다. 이러한 환경변화에 대응하기 위해서는 이전과 같은 문화네셔널리즘이 지향해온 문화경쟁제한을 골자로 하는 문화규제가 아니라, 경쟁에서 이길수 있는 문화의 질적 향상을 위해 문화유입과 자유화의 추진이 보다 생산적인 방향이 될것이다.
(5-7)따라서, 이후 동아시아에 있어서 중요한 것은 유동화하는 대중문화에 대해 1)문화시스템의 건전성을 확보-유동적인 재문화간의 경쟁이 높아지면질낮은문화나 청소년에게 유해한 악질문화의 규제-와 2)문화보존, 관리, 개발 인프라의 구축 및 규칙의 정비라고 하는 기능적인 측면을 강조할 필요성이 있다고 생각한다.

6. 나가면서

(6-1)이상의내용을 정리하면 다음과 같다. 20세기후반 한국의 문화적 상황은 정부의 강력한 리더쉽을 바탕으로 매스컴보도와 문화수입을 제한하며 강력한 문화적 벽만들기에 노력을 경주했다. 이는 식민지와 전쟁에 의해 파탄된 산업과 사회를 재건하기 위해, 국가는 문화를 통해 동질성을 주입함으로서, 강력한 민족적 아이덴티티의 확립을 획책할 필요가 있었던 것이다. 이로서 민족적동질성 내지는 순수성을 상징하는 민족문화로서 각종의 문화적 요소가 총동원되었던 것이다. 정리하자면, 국가적 아이덴티티와 정치적목적달성을 목적으로 자민족문화의 순수배양이 강조되었던 시기가 20세기 후반이었던 것이다. 그 결과 한국사회는 다음과 같은 2중구조의 문화도식을 만들어 내게 되었다.

<表5> 20세기 후반 한국사회의 문화도식


(6-2)그런데, 필자가 강조하는「문화의 균일화」(Mcdonaldization) 현상은 비단 현대적인 문화현상만은 아니다. 대항해 시대에 있어서의 유럽문화가 아프리카대륙, 아메리카대륙, 아시아로 유입된 것 또한 중세판 글로벌리즘이다. 단순히 맥도널드나 코카콜라라고 하는 제품의 유행만으로 글로벌리즘은 현대가 낳은 현상이라고 생각하기 쉽상이지만, 중세부터 근세까지의 동아시아에 있어서의「동아시아 중화사상 공유권의 형성」(후루타 히로시) 또한 「균일화된 문화적 현상」인 것이다. 중국에서 베트남으로 확산되고 그 후 조선•일본으로 침투한 유교 이데올로기가 지배자의 통치 사상으로서 활용됨으로서 아시아는 중화사상이라는 문화적 균질화를 이미 경험하였다. 결국, 문화의 균질화와 유동화는 현대인만의 경험이 아니라 어느시대 어느 지역에 있어서도 공통적으로 경험하는 사회적인 현상이라는 인식이 필요하다. 이러한 인식에 기초하여 필자의 기본적 개념 모델을 제시하면 다음과 같다.





    <표6>필자의 기본적 개념모델

균일화된 문화
     국민문화
     전통문화


물론 글로벌사회로 진전이 되고 있다고는 하지만, 동아시아적 상황은 여전히 문화적 경계를 강조하며, 어디까지나 전통 문화나 국민 문화에 아이덴티티의 기초를 요구하는 사회적세력이 강하게 남아있다. 하지만 다른 한편에서는 이제까지 필자가 설명한 것과 같이 국경과 같은 인위적인 경계를 초월하여 균일화된 문화로 자신을 성형하거나 또는 상업주의적 문화수출을 통해 자신의 문화를 사회적으로 균일화 시키려는 세력또한 강력한 지지를 얻고 있다. 따라서 현재 동아시아에 있어서의 문화적 형성은 일견 상반되는 두개의 사회적 세력이 복잡한 상호관련성을 가지면서 새롭게 구축되고 있다고 말할 수 있다.

(6-3)필자의 작업가설: 이상을 고려하였을 때, 21세기의 한국, 중국, 일본의 동아시아 3국은 국경과 언어를 초월하여 「문화 경쟁」→「문화 공생」의 시대에 돌입할 것은 자명한 일이다. 그리고 그 Key Word는, 「국민문화 육성→전통•국민문화 보호→외래문화의 규제→전통문화의 Big bang•세계화→외래문화의 규제완화→다문화의 경쟁→다문화공생→→문화적 하이브리드」로 전개될 것이다.


 
(6-4)2002년3월에 완성된 한일IT인프라정비는 획기적인 변화를 가져왔다. 부산과 후쿠오카가 기가비트급의 국제해저케이블로 연결이 되면서 인터넷 서비스 프로바이더(Internet Service Provider)간에 고속IX(Internet Exchange)와, 프로드 밴드어프리케이션의 전개을 위한 실용적인Quality Of Service기능, 그리고 멀티케스트통신기능, 고도의Contents Delivery Network기능이 제공되었다. 대용량이며 고속의 「정보하이웨이」가 한일양국을 연결하게 됨으로서, 양국민을 합쳐서 약400만명에 달하는 사람의 왕래(2004년도 방한 일본인수, 2,426,837명: 2005년도 한국 통계청자료. 방일 한국인수 159만명, Jnto 국제 관광 백서 2004년도판)와 678억 달러(한국→일본 217억 달러, 일본→한국 461억 달러)」(2004년도, 외무성 북동 아시아과편「한국 경제의 현상과 일한 경제 관계」)에 달하는 물류의 유통과 더불어 양국간에 비약적인 정보교환이 이루어지게 되었다. 한국과 일본간에 Digital Business Belt가 형성되기 시작하였고 국제Business와 Cultural Contents의 국제유통이 개시되었다. 이러한 광케이블을 통한 교류는 한일간 뿐만아니라, 가까운 장래에는 각지역간에도 네트웍이 형성되리라 예측한다. 이러한 국제고속네트웍이 완성되면, 동아시아는 문화의 유동화가 가속화되어, 그 결과 문화의 도태, 선별이진행되는 문화경쟁시대가 본격화될 것은 틀림없는 사실이다. 또한 국경을 초월한 정보의 흐름이 한일간의 문화적 거리감을 급속히 좁혀줄것이라는 것은 충분히 예상할 수 있다.
(6-5) 유감스럽게도, 현재 일본의 교육실정은 한국고대사는 물론 근대사조차도 충분히 가르치고 있지 않은 탓에, 일본 총인구의 50%를 점하고 있는 30세이하의 젊은 층은 이승만, 박정희대통령의 이름조차도 모르는 실정이다. 더구나, 젊은 층의 대다수는 한일합방조차도 모르고 있다. 이러한 일본의 실정을 앞에 두고, 일본의 젊은이들이 역사의 무지에격분하는 분들도 있을거라는 생각도 든다. 하지만, 어이 없게도, 이렇게 일본의젊은 층에게 이미 정착해 버린 역사적인 공백이, 반대로 「한국=공포정치」라는 이메지를 불식시키고, 김치와 불고기, 그리고 맛사지와 쇼핑을 위한한국여행의 유행(2000년 한국을 방문한 일본인은 210명에달한다고 한다)을 창조하고, 동대문시장의 심야쇼핑을 즐기면서 「한국=낙원」이라는 이미지가 형성되었던 것이다.
(6-6) 너무 낙관적인 시각인지는 모르겠지만, 이제 한중일 3국이 문화경쟁, 문화공생, 문화하이브리드 시대에 돌입하게 되면, 자국 우월주의를 바탕으로 하는 배타적인 내셔날리즘에 의해 규제, 보호를 받던 이전시대와는 달리, 새롭고 우수한 문화창조를 기대할 수 있을 것이다. 이를 위해서는 「21세기형 문화규칙」을 창조는 반드시 필요하다.

「安全は最大のサービス」釜山日報2009年12月号 

부산일보 2009년 12월 원고    Matsubara Takatoshi
         (九州大学教授)     

(1) 2009년 11월 14일 부산 실내사격장 화재 참사가 발생했다. 정운찬 국무총리는 이튿날인 15일 경남 양산 부산대학교 병원을 찾아 무릎을 꿇은채로 “타국 땅에서 불의의 사고를 당한 분들의 가족에게 깊은 사과의 말씀을 드린다”고 유감의 뜻을 표명했다. 이에 일본인 희생자 유가족들은 "여러가지로 폐를 끼치고 있습니다. 향후, 철저한 안전 대책과 원인 규명을 부탁합니다"라고 정 국무총리에게 당부했다.  
유가족들은 사랑하는 가족의 시신을 눈앞에 두고서도 분노의 말과는 달리 "폐를 끼치고 있습니다."라고 했다. 이러한 일본인 희생자 유가족들의 말은 한국의 매스컴에서는 보도되지 않았다. 일본식으로 말하면 "상대방에 대한 배려"(Kikubari) 이다. 핏발 선 눈으로 주위를 향해 분노를 퍼붓거나 하는 모습은 보이지 않고 담담하게 말하는 일본인이 한국인들의 눈에는 어떻게 비쳐졌을까? 과연 한국인들이었다면 어떻게 국무총리를 대했을까? "아이고,아이고… 내자식 살려내라"고 외치는 소리가 장례식장을 울리지는 않았을까?
사고 발생 당시, 부산에 체재하고 있던 나는 국제시장으로 가서 사건발생 현장을 직접 눈으로 확인했다. 양복점이나 음식점 등이 밀집해 있는 시장 한가운데 위치한 5층건물의 2층에 이러한 사격장이 있었다는 사실에 놀랐다. "설마, 이런 장소에서…". 실탄을 쏘는 사격장이 일반상점들이 즐비하게 늘어선 빌딩의 한 켠에 있다는 것 자체가 일본에서는 상상조차 할 수 없는 일이다.
그렇지만, 부산의 관광 관계자에 의하면 1박2일이라고 하는 짧은 기간 안에 한국을 방문한 일본인 관광객들의 이동 시간을 절약하기 위해서는 국제시장 안에 일본인들이 원하는 쇼핑,음식,사격의 3점 세트를 넣을 수 밖에 없었다고 한다.
 
(2) 일본인 희생자 유가족들은 한국 매스컴에 "다시는 한국 땅에 발을 들여놓지 않겠다" 고 말했다고 한다. 가족이나 친구의 죽음을 직면한 비통한 심경을 이해하지 못하는 바는 아니나 그동안 '부산・후쿠오카 우정의 해 2009'를 제안해 온 한 사람으로서 이러한 말을 듣는 다는 것은 슬픈 현실이다. 2008년도에 규슈・시모노세키와 부산간을 왕래한 일본인은 약 50만명으로 매년 증가 추세에 있다. 그런 만큼 이번 화재가 일본인 관광객들에게 미치는 영향이 적지 않다. 하물며 한국 정부는 2010년부터 3년간을 '한국 방문의 해'라고 하여 1000만명의 외국인 관광객의 유치를 목표로 하고 있다.11월 11일에는 그 개막식을 개최했다.
(3) 일본으로 귀국하자 마나 이번 화재 사건이 준 영향을 조사하기 위해서 후쿠오카 시민을 대상으로 앙케이트 조사를 실시했다. 조사 대상자수는 154명으로 광범위한 연령층에 걸친 조사가 아니었기 때문에 그 숫자의 신빙성을 높지 않지만 "철저한 안전 대책이 마련될 때까지는 당분간 부산에 가지 않겠다" 는 의견이 62%에 이르렀다.
(4) 이번 사건을 계기로 일본인들에게 있어서 손쉽게 방문할 수 있는 관광지가 된 부산의 이미지 다운을 막으려면 어떻게 해야 할 것인가? 정 국무총리와 함께 침통한 표정으로 유족을 방문하여 조의를 나타낸 허남식 부산시장의 모습은 일본의 텔레비전에서도 크게 방영되었다. 일본에서는 허시장의 성실함을 높이 평했다. 그리고, 특별기로 피해자의 사체를 수송한 한국 정부의 대응과 한국 관광협회 중앙회를 중심으로 한 모금 활동 등의 후의는 잊을 수 없을 것이다. 이와 함께 한국인과 일본인 피해자 16명 전원에게 충분한 보상금이 지불되기를 바란다. 그렇지만, 그것만으로는 안전 대책을 방치한 행정당국의 책임과 신뢰 회복이 만회된다고는 할 수 없다.
허남식 부산시장과 요시다 히로시 후쿠오카 시장에게 제안을 하고 싶다. '전화위복'이라는 말이 있다. 2009년은 부산•후쿠오카 행정교류 협정체결 20주년으로 그 축하 행사만으로 끝날 것이 아니다. 부산과 후쿠오카 시는 공동으로 방재설비 및 방범설비 등의 적절한 관리와 함께, 소방계획이나 천재지변에 대응한 매뉴얼, 병원의 체제를 시작으로 하는 위기 관리 등의 각종 매뉴얼을 책정하여 여러가지 위기상황에 대응하기 위한 세계 최고 레벨의 안전 확보 체제를 정비해야 한다고 본다. 시급하게 부산과 후쿠오카 시가 합동 위원회를 설치해야 한다.
부산과 후쿠오카 시가 공동으로 작성한 방재 매뉴얼로 부산과 후쿠오카 시내의 관광 시설을 점검하고 합격한 시설에는 양시 합동의 적합 마크를 교부하는 것은 어떨까? 이 적합 마크는 틀림없이 양 도시를 방문하는 일본인과 한국인들에게 안도감을 줄 것이다. 방재 매뉴얼뿐만이 아니라 '음식문화에 대한 안전'에도 확대하여 레스토랑 등의 위생 매뉴얼을 작성해도 좋을 것이다.
어쨌든 국제 교류는 단순한 교류의 시대에서 벗어나 공생•공존권의 형성과 함께, 부산과 후쿠오카 시에 있어서 '안전은 최대의 서비스이다' 라고 하는 시민 인식까지도 공유하는 시대로 이행 시키지 않으면 안 된다.

日韓で意味が異なる漢字

熟語 朝鮮語 日本語
工夫 勉強すること 考え出すこと
沙汰 山の崩れること 報知・昔訪・噂
安置 流罪人の禁固 案じて置く
内相 細君のこと 内務大臣
内患 妻のわずらい 内部に生ぜし患い
動物 男のこと 英語のanimal
唐木 金巾 唐木細工など
仮家 店舗 仮の家
発表 疱瘡の出ること 公に表わす
挙動 王様の行啓 様子
文章 学者のこと 言語を連ねて記す
埋没 無情のこと 埋め隠れる
見様 雛形 見真似
三寸 叔父 1寸の3倍
未練 愚鈍 残り惜しがること
議論 商議 物事を論じ又は言ひ争うこと
不祥 不憫 縁起の悪いこと
内外 夫婦 内と外
徒食 菜なしの飯 ブラブラして喰う
図書 印判 図書と書籍のこと
発明 言ひ訳 珍しき事を案出すること
先輩 碩儒 年長者又は先進者
水道 下水 純良なる水を樋で引く事又は水の通ふ道
八朔 痴愚 8月の朔日
山所 墓地の有る所 意義の通り
東山 庭園 東の山
白丁 被差別民 宮殿の雑役夫
念慮 心配 思ふ事又は気遣ひ
滋味 興味 滋養分多き味「
機運 機嫌 発展の機運等の類
片紙 手紙 一片の紙
作乱 悪戯 ーー
募軍 人足 軍勢を募ること
客主 問屋 ーーー
下陸 舟から陸へ上がること 日本に上陸
人事 挨拶 人に関すること
行列 親等 人が列んで行くこと
握手 死体の手に絹を巻くこと 手を握ること
招魂 高声に死者の名を呼び人に告ぐ 軍人の霊祭り
狼狽 失敗 慌てること
生涯 生活又は職業 人の一生

2009年12月25日金曜日

新釜山案内

                       新釜山案内

龍頭山公園 青鶴洞 昭和9年、開業。
古館公園 瀛仙町1997番地
大正公園 瀛州町583番地 明治42年4月に私立開成学校を変更して、公立普通学校を校名として設立。
公会堂 瀛州町
松島海水浴場 瀛州町
運動場 瀛仙町
図書館 瀛仙町336番地 大正9年4月、私立玉成学校を廃校として、創立。
釜山府立職業紹介所 大倉町 明治16年(1883)開庁。
釜山府東部公益質屋 大倉町 大正12年(1923)11月に釜山出張所として開設。大正14年2月に、現在地に移転。
釜山府西部公益質屋 大倉町 大正3年、来釜。
西部第1部方面事務所 大倉町 大正12年、開業。
中部第1方面事務所 大倉町1丁目 大正元年、開業
南部第1方面事務所 大倉町1丁目 昭和3年、開業
斎場・火葬場 大倉町1丁目4番地
東本願寺別院 大倉町2丁目17番地 昭和2年、開業
釜山共生園 大倉町2丁目213番地
金剛寺 大倉町2丁目28番地 明治39年9月、開業
慶尚南道庁 大倉町2丁目40番地 昭和8年4月、開設
産業奨励館 大倉町2丁目55番地 明治40年9月、開業
水産試験場 大倉町2丁目5番地 明治8年、開業
釜山地方法院 大倉町3丁目 明治31年、開業。
朝鮮総督府獣疫血清製造所 大倉町3丁目 明治35年開業
朝鮮総督府内務局草梁土木出張所 大倉町3丁目4番地 大正元年、開業
朝鮮総督府水産試験場 大倉町4丁目 明治38年1月、創刊。
釜山税関 大倉町4丁目17 明治45年3月、開所。
釜山郵便局 大倉町4丁目25番地 大正10年、開業。
釜山貯金管理所 大倉町4丁目29番地 明治40年、開業
逓信局釜山海事出張所 大倉町
釜山測候所 大倉町 明治9年(1876)11月、釜山帝国領事館内郵便局が開設。明治17年2月より、電信業務も開始。
釜山税務署 大倉町 明治40年、開業
大邱専売支局釜山出張所 大倉町2丁目13番地
農林省京城米穀事務所釜山出張所 大倉町3丁目3番地 明治37年、開業
穀物検査所釜山支所 大倉町3丁目4番地 昭和5年、結成
釜山憲兵分隊 大倉町4丁目 大正15年起工。昭和3年3月、竣功。煉瓦鉄筋コンクリート4階建て、延べ建坪、584坪。
陸軍運輸部釜山出張所 金海郡進永面、昌原郡大山面 明治3年5月、迫間家が経営
陸軍築城本部釜山出張所 草場町2丁目22番地 明治31年11月、開業。
釜山警察署 草場町3丁目42番地 明治28年、開業
釜山水上警察署 草場町 大正7年に、大正天皇即位記念事業として建設。3270坪。本多林学氏が設計。
釜山刑務所 草場町2丁目46番地 明治41年、開業
釜山鉄道事務所 幸町1丁目 大正4年、開業
釜山駅 幸町1丁目16番地 大正3年、開業
釜山鉄道会館 幸町1丁目37番地 昭和6年、開業
釜山商工会議所 幸町1丁目40番地 大正10年11月に幸町に、開業。
釜山公立中学校 幸町1丁目42番地 昭和2年、開業
釜山第1公立商業学校 幸町1丁目9番地
釜山第2公立商業学校 幸町2丁目30番地 明治39年、開業
釜山公立高等女学校 幸町2丁目45番地 大正3年11月s、開業
私立三島高等実業女学校 栄町 明治38年、開業
釜山公立職業学校 栄町1丁目23番地
釜山公立高等小学校 栄町2丁目
釜山第1公立尋常小学校 栄町3丁目 大正元年、開業
釜山第2公立尋常小学校 栄町3丁目64番地 大正14年、開業
釜山第4公立尋常小学校 栄町5丁目
釜山第6公立尋常小学校 栄町5丁目4番地 大正元年、開業
釜山第7公立尋常小学校 佐川町 大正12年(1923)5月、第3尋常小学校より分校。
釜山第3公立尋常小学校 佐川町436番地 大正8年4月1日、業務開始。
釜山第8公立尋常小学校 沙下面岩南面 日本三景の一つ「松島」を彷彿するとして、命名。
釜山公立普通学校 沙下面岩南面 明治44年4月、創設。朝鮮半島全域に種痘ワクチンを供給。
釜山鎮公立普通学校 水晶町 明治38年(1905)4月1日、釜山公立尋常小学校草梁分校として、 開校。明治39年に草梁尋常小学校と改称。明治45年4月、現校名に改称。
牧島公立普通学校 水晶町
富民公立普通学校 水晶町1293番地
南富民公立普通学校 水晶町 元は168坪。釜山開拓の功労者津江兵庫の碑を建立。大正3年(1914)に府制施行とともに468坪に拡大。昭和3年(1928)、大池忠助が渡鮮50年記念に私財10万円を投じて、元上杉氏所有の庭園3463坪を寄付した。公園は大屋霊城氏の設計。準日本式庭園。
朝鮮銀行釜山支店 水晶町1丁目21番地
朝鮮殖産銀行釜山支店 末広町5丁目 明治42年、開業
第1銀行釜山支店 草梁83番地 大正3年、開業
安田銀行釜山支店 草梁町 大正2年(1913)4月1日、開校。同年11月28日、校舎落成。
釜山商業銀行 草梁町 昭和3年7月31日、開業、
十八銀行釜山支店 草梁町134番地
朝鮮商業銀行釜山支店 草梁町46番地
漢城銀行釜山支店 外東莱
慶尚合同銀行釜山支店 外西面 明治42年(1909)6月、創立。大正12年(1923)、4月、現在地に移転。
東洋拓殖釜山支店 大新町 大正15年に着工。総面積2万1773坪。野球場、陸上運動場、テニス場。
朝鮮金融組合連合会慶南支部 大新町
釜山第1金融組合 大新町
釜山第2金融組合 大新町 明治38年(1905)4月1日、西山下町に開校。明治40年7月に宝水町に移転。明治45年5月に大新町に移転。
釜山第3金融組合 大新町316番地 明治35年開業
釜山西部金融組合 大新町319番地 大正15年、開業
朝鮮信託釜山支店 大新町377番地 明治45年3月、宝水町1丁目に開校(釜山商業専修学校跡)
釜山無尽 大新町630番地
慶南無尽 大庁町 明治10年(1877)5月、開校。
釜山信用組合 大庁町 昭和8年11月、釜山信託を買収、これを釜山支店として開業。
釜山米穀取引所 大庁町
釜山穀物商組合 大庁町
釜山海産商組合 大庁町1丁目
釜山日報 大庁町1丁目
朝鮮時報 大庁町1丁目 大正12年、開業。
大庁町1丁目10番地 大正2年(1913)4月15日、開校。大正11年(1922)、校舎落成し、現在地に移転。
今井荘重 今井荘重洋服店 大庁町1丁目35番地 明治39年10月、開業。
岩崎徳太郎 岩崎商店 大庁町1丁目35番地 明治39年10月、開業。
伊田新太郎 伊田商店 大庁町1丁目38番地
磯村武経 磯村牧場 大庁町1丁目39番地 大正4年、開業
英友次郎 英商店 大庁町1丁目43番地 大正9年9月、開校。
迫間房太郎 迫間総商店 大庁町1丁目43番地丁目12番地 昭和2年3月、開業
迫間家進永農場 大庁町2丁目
吉元永吉 荻野商店 大庁町2丁目17番地 大正12年、開業。
橋本良助 橋本商店 大庁町2丁目20番地 大正3年、開業
香椎源太郎 日本硬質陶器 大庁町2丁目23番地 明治20年、開業。
原田竹次郎 堀兄弟商会 大庁町2丁目29番地
砂川菊次 星洋燈硝子店 大庁町3丁目 明治38年、開業
星野政太郎 大庁町3丁目14番地 大正2年3月、開業。電話1615番
嘉納次郎右衛門 本嘉納商店 大庁町3丁目17番地 明治44年5月、開業。
山本粂太郎 朝鮮紡織 大庁町3丁目20番地 大正元年、開業
香椎源太郎 朝鮮瓦斯 大庁町3丁目31番地 大正3年、開業
松井房治郎 朝鮮米穀釜山支店 大庁町3丁目9番地
広瀬博 朝鮮郵船釜山支店 大庁町日本生命内
四居順三 朝鮮琺瑯 大庁町 明治31年、入仏式挙行。大師医院を付設。
前岡英明 朝鮮製鋼 大庁町1丁目 明治37年3月7日、創立。昭和9年1月1日、移転。
梁郷煥 梁郷煥商店 高島町
大池源二 大池商店 高島町
大池源二 大池回漕店 高島町
大島芳輔 大島芳輔商店 高島町3番地 大正2年、開業
小佐助一郎 小佐助一郎商店 谷町1丁目 明治35年、富平町に開業。明治43年、現在値に移転
若狭栄市 若狭商店 谷町2丁目
和田周太郎 和田商店 谷町2丁目126番地 明治33年、開業
香椎源太郎 土城町 明治39年(1906)4月1日、開校。明治42年6月、現在地に移転。
川井亮吉 川井印刷所 土城町1丁目25番地 明治31年、開業。
賀来寶太郎 賀来商店 土城町2丁目24番地 大正8年(1919)4月、開校。
鳥谷実政 鳥谷箪笥店 土城町3丁目16番地 大正3年11月s、開業
桂寛治 河谷釜山支店 土城町3丁目6番地 大正3年、開業
角永金助 角永商店 土城町
吉見義夫 吉見商店 土城町3丁目 明治37年、開業
吉村勇 吉村調髪所 東莱温泉場
大黒酉松 大倉南海堂 東莱温泉場 昭和6年、開業
森英示 大鮮醸造 東莱温泉場 大正15年、開業
福永政治郎 高瀬合名 東莱温泉場 大正3年、開業
立石良雄 立石商店 東莱温泉場 明治38年、開業
田中清 田中造船鉄工所 東莱温泉場 大正5年、開業
田中筆吉 田中組 中島町
竹下隆平 竹下農場 中島町2丁目 大正11年(1923)4月、開校。
武末一夫 西町1丁目
中村高次 中村造船 西町1丁目 明治20年、開業。
中谷広吉 中谷組 西町1丁目8 昭和2年12月20日、開所。
中島駒吉 中島商店 西町1丁目9番地 昭和9年、開業。
平野英萬 巧文社活版製造所釜山支店 西町2丁目 明治17年、開業
夏川義信 夏川商店 西町3丁目 大正14年4月、開業。
上杉古太郎 上杉商店 西町3丁目 明治41年、開業
上野勇 上野洋家具店 西町3丁目9番地 明治41年、開業
野方文吾 野方商店 西町4丁目 明治27年、創刊。
倉橋定蔵 倉橋定商店 西町4丁目
矢追音治郎 西町4丁目42番地 昭和6年、開業
北野長松 大和屋菓舗 西面釜田里409番地 大正10年、開業。
長谷川要太郎 山長合資 富平町1丁目10番地 明治41年、開業
山中要 弁天町郵便局長 富平町1丁目27番地
真島元三郎 山邑酒造釜山支店 富平町1丁目56番地 明治43年5月、開業。
山内壮一 山内醸造場 富平町2丁目56番地 大正10年、開業。
山野秀一 山野黒鉛工業所 富平町3丁目39番地 明治44年1月、開業
桶谷吉蔵 山口屋洋品店 富平町4丁目7番地 昭和2年、開業
岡室勝之 山下テント商行 富平町1丁目48番地 明治37年、開業
山下福蔵 山下洗布所 富平町2丁目63番地 明治35年開業
室井勝吉 山城屋商店 富平町2丁目63番地 明治39年、開業
山本頼之助 山本呉服店 富平町2丁目76番地
山本栄吉 山本栄吉商店 富民町 明治42年(1909)11月、開庁。
マルタ海運 富平町3丁目54番地 昭和4年10月1日、業務開始
古沢仙吉 丸吉酒造 弁天町1丁目
松岡甚太 松岡酒造場 弁天町1丁目15番地 大正8年、開業
松尾己之介 松尾商店 弁天町1丁目45番地
増永昇 増永焼酎醸造所 弁天町1丁目45番地17番地 明治42年、開業
池田佐忠 釜山築港 弁天町2丁目
中村準策 釜山鎮埋築 弁天町2丁目 明治40年、開業
香椎源太郎 釜山水産 弁天町2丁目23番地 明治21年、開業
石原■(香+香織) 釜山食糧品 弁天町2丁目38番地 大正2年3月、開業。
西本栄一 商船組 弁天町2丁目9番地 大正10年、開業。
大池源二 釜山油脂 弁天町3丁目5番地
富原研二 釜山大同燐寸組合 弁天町 延宝元年対馬領主宗義真が金比羅大神を奉載。大正5年(1916)に公園として整備。1万1978坪。大正12年(1923)にい自動車道路が開通。昭和9年、東参道改修。
釜山米油組合 弁天町1丁目 昭和9年4月、創立。
釜山化粧品同業組合 弁天町1丁目3番地 大正8年(1919)4月1日、業務開始。
釜山化粧品合資 宝水町1丁目
日本生命釜山出張所 宝水町1丁目41番地
釜山生命保険同業会 宝水町1丁目50-1 大正12年6月、創設。昭和8年(1933)6月、現在地に移転
釜山競馬組合 宝水町1丁目50番地 明治39年(1906)4月1日、釜山公立小学校より分離、開校。同年9月、宝水町新校舎竣功、移転。
福田恒子 福田醸造場 宝水町2丁目115番地 明治42年、開業
藤田悌二郎 藤田悌三郎薬舗 凡一町401番地 昭和5年7月、開業
福島源治郎 福島源本店 凡一町700番地 大正6年11月、開業。
深沢富作 深沢商店 凡一町 明治39年、開業
五島誠助 五島合名 凡一町 昭和9年、開業。
小玉三郎 小玉醸造所 凡一町1007番地 明治44年5月、創設。
国分常五郎 国分金網店 凡一町311番地 大正15年、開業
越田市太郎 越田商店 本町 大正5年、開業
富原研二 近藤商店 本町1丁目
戎才吉 エビス薬院 本町1丁目 明治22年
手島近江 手島曹達石鹸工場 本町1丁目1 大正13年10月、落成。
阿部彦治 阿部彦治本店 本町1丁目10番地 大正2年3月に開業。
浅田忠三郎 浅田運送店 本町1丁目16番地 大正2年、開業
西條利八 西條鉄工所 本町2丁目
沢山昇吉 沢山兄弟商会 本町2丁目 明治37年、開業
佐々木清綱 佐々木法律事務所 本町2丁目 明治13年3月、高瀬政太郎氏が開設。大正6年、開業
坂本登喜三 坂本商店 本町2丁目 明治41年、開業
米倉清三郎 三和ゴム 本町3丁目 大正12年、開業。
北島袈裟吉 北島紙店 本町3丁目10番地 昭和3年、開業
菊次新 菊次商店 本町3丁目14番地 明治23年、開業
由岐潔治 由岐衛生化学試験所 本町3丁目2番地 大正3年、開業
明治屋 本町3丁目36番地 昭和5年、結成
美濃部春一 三友商会 本町3丁目3番地 明治38年、開業
三井物産釜山支店 本町3丁目5番地 明治8年、開業
光本小四郎 光本汽船 本町4丁目24番地
中江勝治郎 三中井呉服店釜山支店 本町4丁目26番地 明治43年、開業。
土屋高一 三重出版社 本町5丁目 大正4年、米穀検査規則の施行。
佐々木幹三郎 昭和コルク釜山工場 本町5丁目 明治44年、開業
白石馬太郎 白石製塩所 本町5丁目19番地2 明治38年、開業
篠崎亀雄 篠崎洗布所 牧の島 明治39年、開業
森本森 森本精米工場 牧之島 大正12年6月、完成
森 虎一 森虎商店 牧之島 明治41年(1908)1月、開校。明治45年4月に、現校名に改称
藤沢吉次郎 備福屋履物店 牧の島瀛仙町 大正6年、開業
田原寛二 ビワコ屋 牧の島洲碕 明治45年、開業
千歳定吉 千歳組 牧の島瀛仙町 昭和5年、結成
浜野末松 水月堂 牧の島瀛仙町1887番地 昭和4年9月、開業
岡村茂 岡村商店 牧の島瀛仙町2番地 昭和7年8月、開業
村上幾造 村上商店 緑町下
山村正夫 山村商店 南浜町 大正9年、開業
明主数三郎 明主精肉店 南浜町
松井栄太郎 松井旅館 南浜町
戎満雄 戎時計店、釜山ホテル、松島ホテル 南浜町1丁目
小川好蔵 釜山劇場経営、南鮮日報社主 南浜町1丁目 明治39年、開業
吉田元蔵 太平館経営 南浜町1丁目 昭和6年、開業
岩崎武二 岩崎商会・宝来館経営 南浜町3丁目3番地 大正12年、開業。
満生峰次郎 相生館経営 南浜町1丁目62番地 明治43年創立、釜山海産物仲買商組合が前身。
桜庭幹夫 昭和館経営 南富民町 昭和7年9月、開校。
笠井ぬい 料亭加茂川 南面栽松里 昭和8年、開業
大給よしを 料亭よし花 瀛仙町 昭和8年、開業
津田ミツ 料亭美津巴 瀛仙町1951番地 大正11年3月25日、業務開始。
津田ミツ カフェー・うービー 奥村円心、布教に従事。明治10年11月、渡韓。建物は、旧和館参判官舎、文政11年5月最古の建築物。
熊野亀雄 カフェー赤玉会館 明治43年(1910)4月創立の釜山出張所が、同年11月に支店昇格。
和田奈良作 カフェー・ミカド 明治11年6月、開設。
山本音吉 精養軒 明治25年7月、第58銀行釜山支店として開業。大正12年11月、安田銀行釜山支店と改称。
関水武 釜山ゴルフ 明治26年(1893)百二銀行釜山支店の事務を継承、明治30年十八銀行釜山支店と改称
東原嘉次郎 東莱金剛園 大正11年(1923)3月、開業。
豊田福太郎 蓬莱館 大正7年(1918)、開業。
五島トラ 東莱館 大正10年11月に栄町に、開業。昭和4年9月に、現在地に移転。
脇路久 脇旅館 大正13年、開業。
鳴戸長蔵 旅館鳴戸
荒井薫樹 荒井旅館 大正8年、釜山支店開業。
友田しづ 旅館静の家 昭和5年12年、開業。

2009年12月23日水曜日

江戸時代苗代川、橘南谿著

薩州鹿児島城下より7里西の方のノシロコという処は、一郷皆高麗人なり。往昔、太閤秀吉、朝鮮国御征伐の時、此国の先君、彼国の一郷の男女老若とりことなして帰り給い、薩州にて彼朝鮮のものどもに一郷の土地を賜い、永く此国に住せしめ給う、今に至り、其の子孫打つづき、朝鮮の風俗の儘にして、衣服、言語も皆朝鮮人にて、日を追うて繁茂し、数百家となれり、始めとらわれ来たりし姓氏十七氏、所謂、伸・李・朴・下・林・鄭・車・姜・陳・崔・廬、沈・金・白・丁・何・朱なり。ーー此村半分は皆焼物師なり。朝鮮より伝え来たりし法を以て焼く故に、白焼などは実に高麗渡りのごとくにて、誠に見事なり、日本にて焼たるものとは見えず、夫故に上品の焼き物は太守よりの御用ものばかりにて、売買を厳敷禁ぜらる。ーー薩摩の朝鮮通詞は此村の人つとむ。当村にて平生は大方和語に馴れたりといえども、又よく朝鮮の言葉を用ゆるものありて、通事役をつとむる也。都で薩摩は異国の船毎度漂着する故、諸異国の通詞役人有り、此村の人の朝鮮通詞を勤めるは尤もの事なり」(『西遊記』巻4,「高麗の子孫」)

『東国歳時記』の著者洪錫漠について

タイトル: 『東国歳時記』の著者洪錫漠について
タイトル(別表記): A study of Hong-Song-mo (author of Tong-Kuk-Sesiki)
著者: 松原, 孝俊
著者名ヨミ: マツバラ, タカトシ
著者名(別表記): Matsubara, Takatoshi
著者情報: 九州大学言語文化部 / Institute of Languages and Cultures
出版年: 1996-03-01
刊行元: 九州大学言語文化部
刊行元(別表記): Institute of Languages and Cultures, Kyushu University
掲載情報: 言語文化論究 || 7 || p63-71 / Studies in Languages and Cultures || 7 || p63-71
ISSN: 1341-0032
言語: jpn
資料種別: 論文 / Article / 紀要論文
資料種別(NII基準): Departmental Bulletin Paper
査読有無: unrefereed
キーワード: 朝鮮史 / Korean History
地域: 朝鮮 / Korea
時代: 李氏朝鮮 / Yi Dynasty
URL: http://hdl.handle.net/2324/5409
著者HP・刊行元HP: http://www.flc.kyushu-u.ac.jp/ / http://matsu.rcks.kyushu-u.ac.jp/
コレクション: 言語文化論究 = Studies in Languages and Cultures

東国歳時記フルテキスト

正月(P.18) 小林英之(農学部農業工学科機械専攻)作成
元日
 議政時大臣率百官 詣闕 新歳問安 奉箋文表裏 朝賀於正殿之庭
八道方伯 ■帥州牧 進箋文方物 州府郡縣戸長吏亦咸來參班 冬至
又行進箋之儀 京都俗 歳謁家廟 行祭 曰茶禮 男女年少卑幼者 皆着
新衣 曰歳粧 訪族戚長老 曰歳拜 饋以時食 曰歳饌 酒曰歳酒 按崔
寔月令 正月潔祀祖禰 飲椒栢酒 又按宗懍荊楚歳時記 元日進屠蘇
酒膠牙  此即歳酒歳饌之始 姻親家婦女 相送 粧少婢 問新年平
安 曰問安婢 李參奉匡呂有詩曰 誰家問安婢 問安人誰家 各司胥隷
各營校卒 摺紙列名 來呈單子於官員及先生家 門内置 盤 受之曰
歳銜 外道衙門 亦然 按王 寓圃雜記 京師風俗 毎正朝主人 皆出賀
惟置白紙簿並筆硯於几 賀客至書其名 無迎送也 此即歳銜之始 蒸
粳米粉 置大板上 以木杵有柄者 無數擣打 引作長股餅 名曰 白餅因
細切 薄如錢 和醤 水湯熟 調牛雉肉番椒屑 名曰 餅湯 以供祀接客
爲歳饌之不可闕者 入湯烹之故 古稱 麺者似是物也 市肆以時食賣
之諺稱添齒者 謂吃餅湯第幾椀 按陸放翁歳首書事詩註 郷俗歳日必
用湯餅 謂之冬 飩年  盖 古俗也 餔粳米粉於甑中 以熟赤豆隔鋪
之 隔粉多積 視甑大小 或用糯米粉 隔蒸之 名曰甑餅 以歳時祷神 又
於 朔望及無時祷神 亦如之 承政院 預選侍 從堂下文臣 製進延祥詩
命 閣提學 出韵五七言律絶 考第入格者 題于貼闕内各殿柱楹門 
立春日 春帖子端午帖子倶用是例 按温公日録 翰林書待詔請春詞 以
立春日剪貼於禁中門帳 又按呂原明歳時雜記 學士院端午前一月 撰
閤門帖子 及期進入 盖古規也 圖 署 壽星仙女直日神将圖獻于公(P.19)
亦相贈遺 名曰歳 以寓頌祝之意 又 進金甲二将軍像 長上餘 一
持斧 一持節 掲于闕門兩扇 名曰門排 又以絳 烏帽像 掲重閤門 又
鍾馗捕鬼 貼戸 鬼頭 貼 以辟邪瘟 諸宮家戚里門扇亦皆掲之
閭巷又多效之 俗以金甲者 謂四天王神像 或以爲尉遅恭秦叔 絳
者爲魏鄭公 按宋敏求春明退朝録 道家秦章圖天門守衛金甲人 葛
将軍掌旌 周将軍掌節 今之門排 似是葛周二将軍 而世俗乃以傳奇中
唐文皇時事傳會之爾京外朝官命婦 年七十以上 歳首賜米魚鹽 以爲
例朝官年八十 士庶年九十 各加一資 年百歳特超一品階毎歳首以
應資老人授資入政 稟下批 皆優老尊年之盛典也 閭巷壁上 貼鷄虎
以禳之 按董勛問禮俗一日爲鷄 又按荊楚歳時記 正月一日 鷄
帖戸 今俗昉此 虎似取寅月之義也 男女年値三 者 三鷹 貼于門
三 法 巳酉丑生 亥子丑年 申子辰生 寅卯辰年 亥卯未生 巳午
未年 寅午戌生 申酉戌年 俗信卜説 用此以禳之 生年隔九而入三
三年之内 不干人物 多愼忌之事 逢親 年少 以登科 進官 生男 獲
財等語 爲德談 以相賀 曉頭出街巷間 無定向 以初聞之聲 卜一年休
咎 謂之聽讖 按燕京俗除夕 祷竈前 請方向 抱鏡出門 聽市語以卜 來
年休咎 東俗亦然 擲五行占 以卜新年身數 五行各有占辭 木刻金木
水火土如碁子 一時擲之 觀其俯仰 而得占男女一年梳頭 貯退髪 留
梳凾中 必待元日黄昏 燒於門外 以辟瘟 孫思千金方 正月寅日 燒
白髪吉 元日燒髪昉於是 俗説鬼名夜光 是夜降于人家 穿兒 足様
合則 輒穿去 主不吉 故群兒畏之 皆藏 滅燈而宿 懸篩於廰壁或
階庭間 謂以夜光神數篩孔不盡 仍忘穿 鷄鳴乃法 夜光未知何鬼
而或藥王之音轉也 藥王像醜 可令怖兒耳 僧徒負皷 入街市擂動 謂
之法皷 或展募緑文 叩 念佛 人爭擲錢 又用一餠換俗二餠 俗得僧
餠飼小兒 以爲善痘 朝禁僧尼 不得入都門 故城外有此風 諸寺上佐
乞齋米於五部内 自曉荷 巡行 沿門唱聲 人家各出米給之 蓋新年
激福之意也 慶州俗 是日相慶 拜日月神(見輿地勝覧)
濟州俗凡於山藪川池邱陵墳衍木石 倶設神祀 毎自元日至上元 巫
覡擎神纛作儺戯 錚皷前導出入閭里 民人爭捐財錢 以賽神 名曰花

立春(P.29)
大内貼春貼子 卿士庶民家及市廛皆貼春聯 頌祷 名曰春祝 按
荊楚歳時記 立春日貼宜春字于門 今之春聯 昉此 觀象監 朱砂搨辟
邪文 進于大内 貼門 其文曰 甲作食胸 胃食虎 雄伯食魅 騰
間食不祥 攬諸食咎 伯寄食夢 強梁粗明共食桀死寄生 委隨食觀 錯
斷食巨 窮奇騰根共食蟲 凡使十二神追惡凶 嚇汝躯拉汝幹節 解汝
肌肉 抽汝肺腹 汝不急去 後者爲糧 急急如律令 此即後漢書禮儀志
先臘一日 大儺逐疫 子所和之詞 而今作立春符 端午日亦貼之 健
陵印頒恩重經眞言 貼 禳之 其文曰 曩謨三滿多 没駄喃 曩娑(P.30)
訶亦作端午符 門帖有神茶鬱壘四字 古俗元日桃符 神茶鬱壘
像 置之門戸 以禦凶鬼 其制自黄帝始 今用於春帖 又有門神戸靈 呵
噤不祥 國泰民安 家給人足 雨順風調 時和歳豊等對語 閭巷柱 通
用對聯 壽如山 富如海 去千 來百福 立春大吉 建陽多慶 堯之日月
舜之乾坤 愛君希道泰 憂國願年豊 父母千年壽 子孫萬代榮 天下太
平春 四方無一事 國有風雲慶 家無桂玉愁 從春雪消 福逐夏雲興
北堂萱草緑 南極壽星明 天上三陽近 人間五福來 鷄鳴新歳德 犬吠
年 掃黄金出 開門百福來 鳳鳴南山月 麟遊北岳風 門迎春夏
秋冬福 戸納東西南北財 六鰲拜獻南山壽 九龍載輸四海珍 天増歳
月人増壽 春滿乾坤福滿家 戸 單貼 春到門前増富貴 春光先到吉
人家 上有好鳥相和鳴 一春和氣滿門 一振高名滿帝都 士夫多用
新製 或揀右人佳語 畿峽六邑 進葱芽山芥辛甘菜 山芥者 初春雪消
時 山中自生之芥也 熱水淹之 調醋醤 味極辛烈 宜於食肉之餘 辛甘
菜者 養當歸芽也 淨如銀釵股 夾蜂密 之 甚佳 按 遺 東晋 李
鄂 立春日命以蘆 芹芽爲菜盤 相饋 又按 言 安定郡王 立春日
作五辛盤 又按杜詩 春日春盤細生菜 東坡詩 青蒿黄韭試春盤 盖遺
俗也 關北俗是日作木牛 自官府達于閭里 遍出于路 盖倣出土牛之制
而所以示勸農 祈年之意也

人日(P.36)
頒銅人于閣臣 如小圓鏡 有柄鏤仙人 按歳時記 隋劉臻妻陳
氏 人日上人勝 或剪綵或鏤金薄爲之 人勝倣此 命招提 學設科 曰
人日製 試太學圓點儒生參食堂滿三十日爲圓點始許赴試 以詩賦表
策箴銘頌律賦排律等各禮 隨意命題 考取居魁者 或賜第發解 施賞
有差 設行於 宮 或親試於闕内 又或通方外儒生 節日試士 自人日
始 三日七夕九日 皆倣此 曰節日制

上亥上子日(P.37)
上亥爲豕日 上子爲鼠日 國朝故事 宮中小 數百 聯炬曳地 呼
燻豕燻鼠 燒穀種 盛于嚢 頒賜宰執近侍 以祈年之意 始有亥嚢子
嚢之稱 用錦製 亥嚢圓 子嚢長 及健陵御極復古制頒嚢 上子日 閭巷
亦炒豆 呪云 鼠嘴焦 鼠嘴焦 湖西俗 燃炬成群 謂之燻鼠火 上亥日
作豆屑澡面 黒者漸白 豕色黒故 反取其義也

卯日巳日(P.39)
卯日爲兎日 綿絲謂之兎絲 佩而禳災 不納人口木物 忌女先
入 巳日不理髪 忌蛇入宅

上元
炊糯米 拌棗栗油蜜醤 蒸 調海松子 名曰藥飯 爲上元佳饌
用以供祀 盖新羅 俗也 按東京雜記 新羅 智王十年正月十五日幸
天泉亭 有飛烏警告于王 國俗 以上元日 爲烏忌之日 作糯飯 祭烏(P.40)
報賽 今俗因爲時食 郷里人家 以上元前日 束藁如纛状 包禾黍稷粟
之穗 又懸木綿花 冒於長竿之首 建屋傍張索把定 稱禾積以祈豊峽俗
立多枝木於牛宮之後 掛穀穗綿花 小兒曉起 繞樹而行 歌以祝之 至
日出 國朝故事 正月望日 大内 象 風七月耕穫状 分左右角勝 盖亦
祈年之意 而閭巷禾竿 即其一事爾 男女年値羅 直星者 造芻靈
方言謂之處容 齎銅錢於顱中 上元前夜初昏棄于塗 以消厄 群童遍
向門外呼出處容 得便破顱 爭錢 徇路而打撃之 謂之打芻戯 處容之
稱 出於新羅憲康王時 東海龍子之名 今掌樂院郷樂部 有處容舞是也
以芻靈謂處容 盖假此也 俗信卜説 年値 日月直星者 剪紙象日月
鉗以木挿屋脊 月出時 或燃炬 迎之 水直星者 以紙裏飯 夜半投井中
禳之 俗最忌處容直星 界女幼少者 自冬佩小木葫蘆青紅黄三枚 如
荳状 用綵絲爲綬 上元前夜半 潜捐于道 亦謂消厄 望前 煮亦小豆粥
食之 按荊楚歳時記 州里風俗 正月望日 祭門先以柳枝挿門 仍以豆
粥挿箸而祭之 今俗説食 似沿于此 都城北門 曰粛清 恒閉而不用 澗
壑清幽 上元前 閭巷婦女 三遊此門 謂之度厄 曉頭 掘取鍾閤十字街
上土 散埋家中四隅 又傅竈 以求財聚 清晨 嚼生栗胡桃銀杏皮栢子
蔓菁根之屬 祝日 一年十二朔 無事太平 不生 癰 謂之嚼 或云
固齒之方 義州俗 年少男女 清晨嚼飴糖 謂之齒較 飲清酒一盞不温
令人耳 謂之 聾酒 按葉廷珪海録碎事 社日 飲治聾酒 今俗於上元
行之畜 瓜 蕈諸乾物及大豆黄巻蔓菁蘿 謂之陳菜 必於是日 作
菜食之 凡瓜顱茄皮蔓菁葉 皆不棄 乾 亦爲烹食 謂之不病暑 以菜
葉海衣裏飲啗之 謂之福裏 按荊楚歳時記 人日 採七種菜作羮 今俗
移於上元 而抑亦衛風御冬之旨畜也 作 五穀雜飯 食之 亦以相遺 嶺
南俗亦然 終日食之 盖襲社飯相饋之古風也 早起見人 猝然呼之 有
應者 輒曰 買吾暑 謂之賣暑 賣之則 謂無暑病 百計呼之 故不應 以
爲謔 按范石湖賣癡 詞 除夕更闌人不睡 云有癡 召人買 又按陸
放翁詩 呼 院落譁新歳 買困兒童起五更 註 立春未明 相呼賣春困
今俗上元賣暑 即此類也 小兒春病 瘠者 乞上元百家飯 騎臼對犬而
坐與犬一匙 自 一匙 不復病 是日不飼犬 飼之則多蝿而痩故也 俗
戯餓者此之上元犬 果樹岐枝 閣石子則 果繁 謂之嫁樹 按徐光啓農(P.41)
政全書惟李樹用此法 又按兪宗本種果 嫁李法 正月一日或十五日
又按陳 花暦新栽 嫁李 除夕日五更 以長竿打李樹椏則結實多 又云
嫁石榴元朝以石塊 安榴椏枝間則 結實大除夜亦可 盖嫁果之法 除夜
元朝上元 無不宜焉 今俗沿此 兒童列書 家口某生 身厄消滅字於紙
鳶之背 任其所飛 日暮斷其線而放之 鳶制竹骨糊紙 微似箕状 五色
或棊斑墨額錚盤方革 猫眼鵲 魚鱗龍尾 名色特繁 作絲車 繋絲
而運投之空中 隨風戯之 謂之風錚 中國則製様奇巧 自冬而始 爲晩
春之戯 東俗亦自冬天 市上賣之至 于上元 諺傳 昉自崔 伐耽羅之
役 國俗至今行之 合絲淬膠 淨如白馬尾 或染 梔黄 飛無定處 縱横
掃盪 與他相交 以多割爲快 凌風而叫者 最善 割甚者 傅以磁末銅
屑 然在交法之能否 都下年少 有以善交鳶噪名者 豪貴家往往延致觀
之毎 上元前一兩日 水標橋沿河上下 觀交鳶者 簇如堵墻 群童候斷
搶絲 或追敗鳶 睨空奔波 踰垣越屋 勢莫可遏 人多怖駭過上元 不復
飛鳶 糊貼五色紙於竹骨左右 方圓大小 制様不一 以柄中挿 小兒弄
之 當風而轉 號曰 回回兒 市多賣之用獨繭絲 繋鵞毳 小兒順風而
之 號曰 姑姑妹 蒙古語鳳凰也 以放鳶之餘絲 兒童繋石 相對交絲牢
引以爲 戯被斷者負 穴地爲窩 壯幼分隊 擲錢 以中窩 後擲王大錢中
其賭中者 收其錢以爲勝 誤中與不中者 爲負 上元日此戯尤盛 小兒
或用 破陶爲錢而擲之 初昏持炬登高 謂之迎月 以先見月者 爲吉
仍占候月色 亦徴旱 白徴水 又占月出時 形體大小湧浮高低 又以輪
郭四方厚薄 占四方年事 厚則徴豊 薄則徴凶 無少差 巡邏軍門弛
夜禁 按唐韋述西都雜記 正月十五夜 勅許金吾 弛禁前後各一日 謂
之放夜 國制倣此 都人土女 傾城而出 聽夕鍾於閲雲街鍾閣 散
至諸橋 往來達夜不絶 謂之踏橋 或云橋 方言與脚同釋音 俗説 如
是 則終年無脚疾 大小廣通橋及水標橋最盛 人海人城 簫鼓喧轟 按
雍洛靈異録 唐朝正月十五夜 許三夜 夜行 士女 無不夜遊 車馬塞路
又按陸啓浤北京歳華記 正月十五夜 婦女倶出門走橋 于奕正帝京景
物略 元夕婦女 相率宵行 以消疾病 曰走百病 榜宛署雜記 十六夜
婦女群遊 凡有橋處 三五相率 以過謂之度厄 此即東俗踏橋所沿也
李 光芝峯類説云 上元踏橋之戯 始自前朝在平時甚盛 士女駢達(P.42)
夜不止 法官至於禁捕 今俗 婦女無復踏橋者矣 三門外及阿 人 成
群分隊 或持棒 或投石 喊聲 逐 爲接戰状於萬里上 謂之邊戰 以
退走邊爲負 俗云 三門外勝則 畿内豊 阿 勝則 諸路豊 龍山麻浦惡
少 結黨 救阿 方 其酣鬪 呼聲動地 纒頭相攻 破額折臂 見血不止
雖至死傷而不悔 亦無償命之法 人皆畏石 回避 掌禁該司 行禁
而痼習無以全革 城内童堅亦 效而爲之於鍾街琵琶亭等處 城外則
萬里 雨水 爲邊戰之所 安東俗 毎年正月十六日 府内居民 以中
溪分爲左右投石相戰以決勝負兩西俗上元亦有石戰之戲按唐書高麗
傳毎年初聚戯 水之上以水石相 擲 馳逐再三而止 此爲東俗石戰
之始 運舎張油燈達夜 如除夕守歳之例 邀瞽者 自上元前 誦安宅經達
夜 以度厄祈福 限月盡行之 立尺木於庭中 月色當午 以其木影占年
穀豊凶 影八寸風雨榮 七寸六寸倶吉 五寸不吉 四寸水蟲行 三寸穀
不實 按此法出於東方朔 又按花暦新栽云 上元夜竪一丈竿 候月午影
六七尺稔 若八九尺主水 三五尺必旱 元宵測影有自來矣 夜半鋪灰於
盂 置之屋上 以驗穀種之自隕 明朝視之 以所隕之種 占其豊熟 曉頭
候鷄初鳴 算其鳴數 過十鳴則 占歳豊 即郷里之俗也 兩西俗 上元前
夜 待鷄鳴 家家持瓢 爭先汲井華水 謂之撈龍卵 先汲者 占其農功 又
以大豆十二枚 爲十二月標 納于 稈 以綯束之 於井中 謂之月滋
晨出驗之 以其滋不滋 徴其月之水旱而不 又以里中戸數 用大豆
幾枚 各爲戸主之標 納稈 井 謂之戸滋 厥明驗之 滋者其戸年内豊
足 湖西俗有炬戰 又以綯索分隊 把持相牽引 不被引者爲勝 以占豊
即古之絜河戯也 畿俗亦然 緇徒又有此戯 關東峽俗群童齊唱百鳥之
名 作驅逐之状 亦是祈穀之意也 春川俗有車戰 以獨輪車各里分隊前
驅相戰 以占年事 逐北者爲凶 加平俗亦然 嶺南俗 有葛戰 以葛作索
大 可四五十把 分隊相引 以決勝謂之占豊 安東俗 村女老弱 成群 夜
出城外 魚貫伏行 後前相續 運亘不絶 令一幼女子 歩行其上 左右扶
掖 唱 來往 若踏橋状 女兒先唱 曰是何橋 伏者齊應 曰清溪山銅
橋 遵大路而或東或西 達宵而止 豊基俗 上元日 邑首吏倒騎黒牛 抱
琴而入衙庭 拜于官 擎日傘而出 未知何意 而必是祈福之事也

月内(P.59)
市廛擇日開市 必用毛蟲日 取其繁 而寅日爲最 收太學四學居
齋儒生 食堂到記 親試講製 講則三經中一經 製則如節製之例講製居
首 並賜第 曰春到記科 秋節又行之 曰秋到記科 慶州俗 正月上子上辰
上午上亥等日 忌愼百事 不敢動作 以爲愼日 盖新羅 智王十年正月
十五日 有烏鼠龍馬猪之異 王免琴匣之禍 國人以子辰午亥日爲愼日
俚言 怛 言悲愁而禁忌也 金宗直有怛 歌(見輿地勝覧) 十六日
郷俗 多不動作 不納木物 爲忌日 似襲慶州之遺風也 二十四日 毎年(P.60)
陰 盖倭亂時 倭兵陷京城 天兵乘勝進逼 倭賊驚遁半夜 焚蕩盡屠
一城 百無一脱 乃是日而怨氣使然也 八日 謬稱敗日 八與敗 華音同
也 是日男子不出門 爲俗忌日 按高麗俗 以毎月八日 婦女出遊城内
外 故男子在家不出 此風訛傳 今俗作不宜出行日 上弦下弦日 稱潮
減日 毎月人家 有拘忌事 必過是日 始相通渉 人物之有所忌者 亦過
是日而接之 初五 十四 二十三日 稱三敗日 毎月忌百事 不敢動作 不
宜出行 盖自麗俗 以此三日 即君上所用之日 故臣民 不用爲忌日云
本非敗日也

二月(P.63)
朔日
頒中和尺于宰執侍從 尺用斑竹亦木制之 健陵丙辰 盖修唐中和
節故事也 按李泌正月奏曰 以晦爲節 非也 請以二月 朔爲中和節 令
百官進農書 以示務本 頒尺 用此意也 卸下上元禾竿穀 作白餠 大者
如掌 少者如卵 皆作半璧様 蒸豆爲餡 隔鋪松葉於甑内 蒸熟而出 洗
以水 塗以香油 名曰松餅 饋奴婢如齒數 俗稱是日 爲奴婢日 東作伊
始 故饗此屬云 賣餅家用 赤豆黒豆青豆爲餡 或和蜜包之 或以蒸棗
熟芹爲餅 自是日以爲時食 灑掃堂于 剪紙書 香娘閣氏速去千里八字
貼於椽上 閣氏者東語女子也 香娘閣氏 盖指馬陸也 惡而辟之之辭
也 嶺南俗 家家祭神 名曰靈登神 降于巫 出遊村閭 人爭迎而樂之 自
是月朔日 忌人物 不接之 至十五日 或二十日 濟州俗 二月朔日 歸德
金寧等地 立木竿十二 迎神祭之 涯月居人 得槎形如馬頭者 飾以彩
帛 作躍馬戯 以娯神 至望日乃止 謂之然燈(見輿地勝覧)

月内(P.65)
初昏 見參星 在月前 如牽 遠則徴豊 按崔寔農家諺 二月昏
參星夕 是也 薦氷于太廟 按禮記月令 仲春之月 天子乃開氷 先薦寢(P.66)
廟 國制亦然 二十日 雨占豊 微陰亦吉 濟州俗 是月禁乘船(見輿地勝
覧)

三月(P.67)
三日
採杜鵑花 拌糯米粉 作圓 以香油煮之 名曰花煎 即古之熬餅
寒具也 又拌 豆粉 熟而細切 澆五味子水 和蜜調海松子 名曰花麺
或以杜鵑花 拌 豆屑 爲之 又造 豆麺 或染紅色 澆蜜水 名曰花麺
以時食供祀 鎭川俗自三月三日至四月八日 女人率巫 祈子於牛潭
上東西龍王堂及三神堂 絡續不絶 四方女人 亦皆來祷 而觀者如市
歳以爲常

淸明(P.68)
取楡柳之火 頒賜各司 即周官出火 唐宋賜火之遺制也 農家始
春耕

寒食
都俗 上墓澆奠 用正朝寒食端午秋夕四名節 以酒果脯醢餅麺
炙之羞 祭之曰 節祀 有從先稱家之異 而寒食秋夕最盛 四郊士女
綿絡不絶 按唐鄭正則祠享儀云 古者 無墓祭之文孔子許望墓 以時(P.69)
祭祀 墓祭 盖出於此 又按唐開元 勅許寒食上墓 五代後周 寒食野祭
而焚紙錢 寒食墓祭 自唐而始也 齊人呼爲冷節 又曰熟食 盖以子推
焚死 傷憐禁火之遺俗也 今之與正朝端午秋夕爲四節祀即東俗也 朝
家 則 冬至 爲五節享 農家以是日 下田圃種子

月内(P.70)
造 豆泡 縷切 和猪肉芹苗海衣 用醋醤衝之 極涼春晩 可食
名曰蕩平菜 人鷄子於滾湯 半熟 和醋醤 名曰水卵 以黄苧蛤石首魚
作湯 食之 蘇魚産安山内洋 魚俗名葦魚 産漢江下流高陽幸州 春
末司甕院官 綱捕進供 漁商遍街 呼賣 以爲膾材 桃花未落 以河豚和
青芹油醤爲羮 味甚珍美 産於露湖者 最先入市 憚其毒者 代以禿尾
魚 蒸禿尾亦是鮮之佳品 採薯蕷 蒸食 或和蜜 作片食之 賣酒家造過
夏酒 以賣酒 名小麹杜鵑桃花松筍 皆春釀之 佳者 燒酒 即孔德甕幕(P.71)
之間 三亥酒甕釀千百最有名稱 關西甘紅露碧香酒 海西梨薑膏 湖
南竹瀝膏柱當酒 湖西魯山春 皆佳品 亦有餉到者 賣餅家 造粳米 白
小餅 如鈴形 入豆餡 捻頭 粘五色於鈴上連五枚 如聯珠 或造青白半
圓餅 小者連五枚 大者連二三枚 名曰 餅 又造五色圓餅 松皮青
蒿圓餅 名曰 環餅 大者稱馬蹄餅 又以糯米和棗肉 造甑餅 皆春節時
食也 按歳時雜記 二社尚食 以棗爲之 今俗亦然 南山下善釀酒 北
部多佳餅 都俗稱南酒北餅 用四午日 重釀酒 經春乃熟 周歳不敗 名
曰 四馬酒 李東岳安訥 飲南宮績四馬酒詩曰 君家名酒貯經年 釀法
應從玉薤傳 人家伐桑養蠶 賣菜漢 負菘根新芽成群叫賣 謂之青根商
蔓菁新出 又叫賣 以爲時食 都俗出遊於山阿水曲 謂之花柳 即上巳
踏青之遺俗也 弼雲臺杏花 北屯桃花 興仁門外楊柳 其最勝處 多集
于此 京外武士及里民 張侯分 爲射會 以賭勝負飲酒爲樂 秋節亦
然 女娘採取青草 盈把者 作髻 削木而加之 着以紅裳 謂之閣氏 設
褥席枕屏爲戯 兒童折柳枝 作 篥 以吹之 謂之柳笙 江陵俗 敬老
毎値良辰 請年七十以上 會于勝地以慰之 名曰青春敬老會 雖僕隷
之賤 登七旬者 皆許赴會(見輿地勝覧) 慶州俗 自春以四時遊賞之
地 爲四節遊宅 春東野宅 夏谷良宅 秋仇知宅 冬加伊宅(見輿地勝
覧) 南原俗 州人當春 會于龍潭若栗林 飲酒射侯 以爲禮(見輿地勝
覧) 龍安俗 邑人當春節 辧貝爲郷飲酒禮 年八九十者一位 六七十
者一位 五十以下一位 序以齒 令人 讀誓文曰 父母不孝者黜 兄弟不
和者黜 朋友不信者黜 謗 朝政者黜 非毀守令者黜 一曰德業相勸
二曰過失相規 三曰禮俗相成 四曰患難相恤 凡同郷之人 各盡孝友
忠信 咸歸于厚 讀訖 倶再拜 以行飲射之禮 秋節又如之(見輿地勝覧)
濟州俗 毎於春節 男女群聚廣壤堂遮歸堂 具酒肉祭神 又地 多蛇
蜈蚣 若見灰色蛇則 以爲遮歸之神 禁不殺 秋亦如之(見輿地勝覧)
清安俗 三月初 縣首吏率邑人 迎國師神夫婦 於東面長鴨山上大樹
入于邑内用巫覡 具酒食 錚皷喧轟 行神祀縣衙及各廳 至廿餘日
後 還其神於樹 而間二年行之

四月(P.78)
八日
八日即浴佛日 東俗 以是日 燃澄 謂之增夕 前數日 人家各竪
燈竿 頭建雉尾 色帛爲旗 小戸則 竿頭多結老松 計家内子女人口 懸
燈 以明亮爲吉 至九日乃止 侈者縛大竹累十 又駄致五江檣 而成
棚 或挿日月圏 隨風眩轉 或懸轉燈 往來如走丸 或紙包火藥而繋於
索 衝上如乘機箭 火脚散下如雨 或繋紙片幾十把 飄揚如龍形 或懸
筐筥 或作傀儡 被以衣裳 繋索而弄之 列廛之棚 務勝競高 張數十索
邪許引起 矮小者 人皆 之 按高麗史 王宮國都以及郷邑 正月望 燃
燈二夜 崔怡於四月八日燃燈 上元燃燈 本是中國之制 而麗俗今已
廢矣 又按高麗史 國俗以四月八日 是釋迦生日 家家燃燈 前期數旬
群童剪紙 注竿爲旗 周呼城中街里 求米布爲其費 謂之呼旗 今俗燈
竿掲旗者 呼旗之遺也 必以八日 肇自崔怡也 燈名 西 蒜子蓮花七
星五行日月 毬船鍾鼓樓閣欄干花盆轎子山 瓶缸鈴卵龍鳳鶴鯉龜鼈
壽福太平萬歳南山等字燈 皆象形 紙塗 或用紅碧紗 嵌雲母 飾飛
仙花鳥 面面稜稜皆粘三色 巻紙片紙 聯翩 鼓燈多 将軍騎馬三
國故事 又有影燈 裏設旋機 剪紙 作獵騎鷹犬虎狼鹿 雉兎状 傳於
機 爲風炎所轉 外看其影 按東坡與呉君釆書云 影燈未 見與其見此
何如一閲三國志耶 此必以三國故事作影也 又按范石湖上元紀呉中
節物俳諧詩 傳影騎從横 註云 馬騎燈 盖自宋時 已有此制也 市燈所
賣 千形百状 五彩絢爛 重價衒奇 鍾街上觀者 如堵 又造鸞鶴獅虎龜
鹿鯉鼈仙官千女跨騎之状 群童競売而弄玩 至燃燈之夕例弛夜禁 士(P.79)
女跨城 初昏遍登南北麓 觀懸燈 或携管絃 沿街而遊 人海火城 達夜
喧 郷外村婆 提挈爭來 必登蠶頭觀之 兒童各於燈竿下 設石楠葉
甑餅蒸黑豆烹芹菜云 是佛辰茄素 延客而樂 又泛瓢於盆水 用帚柄
叩 而爲眞率之音 謂之水缶戯 按張遠 志京師俗念佛號者 輒以豆
識其數 至四月八日 佛誕生之辰 煮豆微撒以鹽 邀人于路請食之 以
爲結綠也 今俗煮豆 盖昉於此 又按帝京景物略 元夕童子 鼓 旁夕
向曉曰 太平鼓 今俗 水缶似是太平鼓之意 而以佛日爲燈夕 故移用
之也

李蘭影「木浦の涙」

1,船頭の舟歌 沖方にかすめば
  三鶴島の波深く 消えゆくに
  波止場の新妻 濡れそぼる裳裾
  別れの涙か 木浦の悲しみ

2,本名ーー李玉礼
3,歌謡界の「不滅の女王」「エレジーの女王」
4,デビュー曲:「郷愁」(1933年)
5,夫:金海松
6,7人の子供
7,1965年4月、49才で他界

2009年12月16日水曜日

苗代川の朝鮮人

「8月8日、笠原村(苗代川共/坪屋村共)、此村永し、土民皆惣髪にして、髪をくるくると巻、かんざしにて留たり、むかし当国守、高麗攻の時、手に生捕給わひし者の子孫也と云」

2009年12月2日水曜日

苗代川本研究文献目録

苗代川本研究文献目録

加藤灌覺「(内鮮融和の模範邨)薩摩の苗代川村」『朝鮮』(朝鮮総督府)75号・76号・78号・79号

吉田猶蔵「苗代川を訪ふ」『朝鮮』第149号、昭和2年

武藤長平「朝鮮俘囚の遺族」『西南文運史論』岡書院、1926年

新村出「朝鮮司訳院日満蒙語学書断簡解説」『東方言語史叢考』

浜田敦「薩摩苗代川に伝えられた交隣須知」『交隣須知』京都大学文学部国語国文学研究室、1961年

安田章「苗代川の朝鮮語写本類について」『朝鮮学報』第39・40輯、朝鮮学会、1966年

鄭光「薩摩苗代が伝来の朝鮮歌謡について」『国語国文』第646号、1988年
藤井茂利「薩摩玉山宮に残る『鶴亀ノ舞歌』の表記」『国語国文薩摩路』第30.30合併号、1988年
藤井茂利「薩摩玉山宮に残る『鶴亀ノ舞歌』再考」『国語国文薩摩路』第32号、1989年

藤井茂利「薩摩美山に伝わった朝鮮語資料の一性格……『韓語訓蒙』の表記法をめぐって」『(奥村三男教授退官記念)国語学論叢』1988年

李康民「薩摩苗代川に伝わる『漂民対話』について」『国語国文』第673号、平成2年

有馬美智子「薩摩藩に於ける対朝鮮人政策」『史?』第4号






交隣

苗代川本のリスト
①韓語訓蒙
②交隣須知 巻1(書写不明)・巻3(文政十年写、天保十三年写)・
巻4ー2(嘉永五年写)
③隣語大方 巻1(二種、共に内題は「隣語」)・巻2・巻3
④漂民対話 三巻、嘉永七年写
⑤講話 二巻
⑥淑香伝 二巻
⑦淑香伝 一巻(安政三年写)
⑧崔忠伝
⑨和韓問答(安政七年写)一冊
⑩朝鮮歌

朝鮮語教材

京都大学文学部言語学研究室所蔵本

1,『韓語訓蒙』     文久4年写本、1冊
2,『交隣須知』     書写期不明、2冊
3,『隣語大方』     安政6年写、2冊
4,『漂民対話』     弘化2年写、2冊
5,『講話』     書写期不明、2冊
6,『対談秘密手鑑』    嘉永2年写、1冊
7,『韓語開諭早引き』   書写期不明、1冊
8,『講話隣語大方抜書』 書写期不明、1冊
9,『淑香伝』 弘化3年写、1冊(上巻のみ)
10,『淑香伝』 書写期不明、1冊(下巻のみ)
11,『惜陰談』 書写期不明、1冊(巻2のみ)
12,『崔忠伝』 書写期不明、1冊
13,『韓牘集要』 書写期不明、1冊
14,『類合』 文政7年写、1冊
15,『和語類解』 天保8年写、2冊
16,『朝鮮八道郡県名』 文化五年写、1冊
17,『漂流之朝鮮人書文集』書写期不明、1冊
18,『朝鮮使節官氏名』 書写期不明、1冊
19,『惟徳成隣』 書写期不明、1冊
20,『朝鮮語学書』 寛延4年写、1冊
21,『朝鮮歌』 慶応4年写、1冊



沈寿官所蔵本

1,『韓語訓蒙』     1冊
2,『交隣須知』     書写期不明、2冊
3,『隣語大方』     巻1、巻2、巻3
4,『漂民対話』     嘉永7年写、2冊
5,『講話』     2冊
6,『淑香伝』 2冊
7,『崔忠伝』   書写期不明、1冊
8,『朝鮮歌』


























書名  対馬    京大 苗代川  東大

  1 『韓語訓蒙』     
  2 『交隣須知』     
  3 『隣語大方』     
4 『漂民対話』     
5 『講話』     
6 『対談秘密手鑑』    
7 『韓語開諭早引き』  
8 『講話隣語大方抜書』
 9 『淑香伝』
10  『惜陰談』
11  『崔忠伝』
12  『韓牘集要』
13  『類合』
14 『和語類解』
 15 『朝鮮八道郡県名』
 16 『漂流之朝鮮人書文集』
 17 『朝鮮使節官氏名』
 18 『惟徳成隣』
 19 『朝鮮語学書』
 20 『朝鮮歌』

世宗19年11月癸丑

世宗19年11月癸丑

礼曹啓すらく、琉球国は往々往聘するも、而も我が国に、其の文を通解する者無し。請ふ、中外をして琉球国の文を通解する者を捜訪せしめ、司訳院訓導を差はし、倭学生をして兼習せしめよ。之に従ふ。

苗代川関係資料

苗代川関係資料

「先年朝鮮より被召渡留帳(苗代川)」(享保7年まで) 松田道康所蔵
「古記留渡海以来事件」 (天保13年まで) 松田道康所蔵

「韓国における医薬品開発の現状と将来」―

「韓国における医薬品開発の現状と将来」―