2009年12月23日水曜日
江戸時代苗代川、橘南谿著
薩州鹿児島城下より7里西の方のノシロコという処は、一郷皆高麗人なり。往昔、太閤秀吉、朝鮮国御征伐の時、此国の先君、彼国の一郷の男女老若とりことなして帰り給い、薩州にて彼朝鮮のものどもに一郷の土地を賜い、永く此国に住せしめ給う、今に至り、其の子孫打つづき、朝鮮の風俗の儘にして、衣服、言語も皆朝鮮人にて、日を追うて繁茂し、数百家となれり、始めとらわれ来たりし姓氏十七氏、所謂、伸・李・朴・下・林・鄭・車・姜・陳・崔・廬、沈・金・白・丁・何・朱なり。ーー此村半分は皆焼物師なり。朝鮮より伝え来たりし法を以て焼く故に、白焼などは実に高麗渡りのごとくにて、誠に見事なり、日本にて焼たるものとは見えず、夫故に上品の焼き物は太守よりの御用ものばかりにて、売買を厳敷禁ぜらる。ーー薩摩の朝鮮通詞は此村の人つとむ。当村にて平生は大方和語に馴れたりといえども、又よく朝鮮の言葉を用ゆるものありて、通事役をつとむる也。都で薩摩は異国の船毎度漂着する故、諸異国の通詞役人有り、此村の人の朝鮮通詞を勤めるは尤もの事なり」(『西遊記』巻4,「高麗の子孫」)
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