2009年1月14日水曜日

パラオ通信第2便

今日の収穫は、PalauのDay care centerにおいて、パラオ人老婆の口から「アリラン」の歌が飛び出したことである。「アリラン、アリラン、アラリヨ、アリラン『とうげ』ノモガンダ」、と。
 注意深く聞いたならば、「アリランコゲルル ノモガンダ」とあるべき歌詞であるが、この老婆は、なぜかしら「アリラン『とうげ』ノモガンダ」と歌ったことに興味を引かれる。
誠に残念ながら、録音器を持参しなかったので、その声を再現できないものの、老婆の記憶の中の歌詞に迷いはなかった。数十年ぶりに歌う「アリラン」は、老婆にとって、記憶の底から絞り出すメロディーであった。そして、敗戦以前にパラオに育った老人の多くは「アリラン」を歌えるそうである。朝鮮人から教わったからだというが、いつ、いかなる機会に、なぜ記憶する理由があったのだろうか。
老婆の話しは、更に続く。
 1945年8月15日以前に、多数の朝鮮人がパラオに居住していたこと。彼らは沖縄人・パラオ人と共に混在しながら、パラオの裏通りに住んでいたこと。パラオ在住の朝鮮人のために、京城(当時)で製作された朝鮮映画がパラオの映画館で上映されたこと。日本人と共に、朝鮮人とも一緒にパラオ人たちがコロール島を脱出して疎開し、敗戦を知らず2~3週間の間、パラオ本島に隠れ住んでいたこと。そしてアメリカ軍が投下した敗戦を知らせるビラによって、パラオ人をはじめとする全員がコロール島に戻ってくると、日本人と朝鮮人の位置が逆転して、朝鮮人が肩で風を切って歩いていたことなどなどを語った。
 パラオの町の中は、約2満名の国民国家が示すように、交通信号がゼロである。多くの車両が日本製の中古であり、右側通行に右ハンドルであるので、一見して奇妙な錯覚に陥る。本来であれば、右側通行であれば、左ハンドルであるべきだが、日本製中古車を改造しないままに使用するために、不思議な車が町中を大手で走り回ることになる。
 我らが借りたレンタカーで走り回った町中には、今なお60数年前に消滅した日本統治下の南洋庁関連建築物と日本人が居住した痕跡を探し出せる。思い出すままに列挙すれば、南洋庁コロール支社、昭南クラブ、パラオ公園、日本人墓地、南洋神社、パラオ医院、南海楼などなど。かってパラオに居住した方々の記憶に定着した植民地空間を地図に落とした資料が存在するからこそ、これらの建物の痕跡を眼前にして、その地図と確認しながら納得するわけである。しかしながら絵葉書や写真などの画像資料を通して、パラオの植民地空間を知る我々には、現在のパラオの変貌は顕著である。絵葉書や南洋庁発行各種出版物に紹介されるお馴染みの画像には、南海の楽園のイメージが強調される。椰子の並木道と日本風の商店街、着物姿の日本女性が歩くメインストリート、物資が溢れる街角などに対して、裸体に近い原住民像とのコントラストは興味深い。そして何よりも着物姿の女性、燕尾服姿の男性を取り囲む現地民を写したポートレートの多さは、やはり南海における日本人の優越感を誇示する画像に他ならない。

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