2009年1月8日
Peleliu州政府発行の入島許可書06358を3ドルで購入し、Peleliu島に上陸する。
コロール島から約50キロ離れたパラオリーフの最南端に位置するPeleliuは、昔であれば、3日かけて渡る距離であったと言うが、我々の快速ボートは最短時間40分で到着する。しかしながら、私たちのボートは船長の厚意で途中の見物スポットに立ち寄りながら、ゆっくりと進み、各所で南海ならではの風光明媚な観光スポットを楽しむ。
Peleliu島に近づくにつれて、島全体は遠浅であるので、港への航路の両側を杭で示してあり、船はその間を巧みに通り過ぎる。パラオの中心地コロール島から遠く隔絶した島に、よもや車が走り廻っていると言えば、Peleliu島民にお叱りを受けるだろうが、我々を乗せた船が港に接岸して、陸に第一歩を記したとき、最初に眼に飛び込んだのは、島を一周する舗装道路であった。場違いなほどに大きな道路である。いかなる産業が島を支えているかと思いやる内に、我々一行を乗せたマイクロバスは、一軒のホテルの玄関に到着した。ビーチに隣接する絶好な地理的な位置に、One Roomがそれぞれ独立するアバイ風建物が八棟、玄関の右手にGift shopを兼ねたCheck in Counterがあった。驚くべきは、そのホテルの主人が若き日本女性であったことである。出身も、動機も尋ねることはなかったが、このPeleliu島に居住し、現地のPeleliu人男性と結婚し、三名のお子様をお持ちの日本人が、我々の前に姿を現したのであった。よもや、この地に日本人がといえば、時代遅れの誹りを免れないだろう。しかし、主人に加えて、さらにホテルのスタッフとして四名の日本人(男性一名、女性三名)も居住していると聞き、我が耳を疑ったほどである。その内のお一人の女性は福岡市出身であった。
ホテルの主人も日本人一行の突然の来訪に対して、快く迎入れてくれた。話しに花が咲く内に主人が漏らした言葉は、日本人の滞在は長くて5日から6日、それに比べて欧米人は最低でも3週間、バケーションの長さが断然違います、と。
とはいえ、我々のように、ダイビングもせず、ビーチで泳ぐこともせず、ひたすら各地の戦跡を尋ね廻る人間の出現に、ホテルの主人も、過去の慰霊団関係者であればいざ知らず、それと無縁な歴史研究者の一団に、逆に新鮮さを覚えていたようであった。
話しぶりから推測して、南洋の孤島の、さらに離れ島に定着した日本人のお子さんたちはPeleliu島にある小学校に通学しているが、中学校に進学するときから日本に送り返したいと親は希望する。僅か165戸で、周囲が数キロのPeleliuで教育を受けた南洋育ちの子供たちが日本に足を踏み入れたときに、どのような文化落差を感じ、その落差ははたして埋めることは可能であろうかと、人ごとながら余計な気遣いをするほどである。
Peleliu訪問の目的は、世界に進出した日本人に会うためではなく、あくまでも当初通りに植民地空間の痕跡(小学校と公学校など)とそれに関する資料(主にオーラルヒストリーを中心に)を探し出すためであった。党内を一周すればするほどに、歴史を捨象し、歴史と無関係でいたいと願う日本人ダイバーたちの無邪気な笑顔に接する。島の周辺にある珊瑚礁と回遊する魚群を楽しむ彼らの無関心さを認めつつも、その一方で日本人の「愚かな歴史」の蓄積にも関心を向けて欲しいと願わずにいれられない。
平坦なPeleliu島全体に戦跡が残されている。しばしば激戦地であったと報じられるが、それは完全な誤りである。兵器・食糧・人員・情報を絶たれた旧日本帝国軍に勝ち目など有るはずはなく、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍の前に、如何に持久戦をとげるか、いかに降伏を延ばすかという「カミカゼ」特攻精神で、旧日本帝国軍の戦いは始まった。誰が考えても、南太平洋の孤島で繰り広げられた戦いは無意味であった。1944年(昭和19年)当時の高揚した戦意のなかで、日本軍の勝利だけを信じて戦地に赴いた兵士たちに、疑問の余地などはなかった。残り少ない乾パンと150発の銃弾だけでは。アメリカ軍に勝てと戦意を奮い立たせた将校たちの真実は、何であっただろうか。
南国特有の密林に飲み込まれてしまったPeleliu公学校址は、僅かに二本のセメント門柱が立っているだけである。すでに学校跡であると推測させるものは見あたらないが、偶然に出会った老婆によれば、彼女たちは裸足で弁当を背負って片道6キロの道のりを通ったという。正課4年、補習科2年の6年間、毎日、毎日。彼女の笑い話しを紹介しておこう。「今の子供はスニーカーを履き、スクールバスに乗って通学するが、毎日がAbsent」。自分の孫たちを指さしながら、皮肉を浴びせながら。
美しい日本語の響き、豊富な日本語の語彙と言い回し、それが実現した南太平洋の孤島における日本語教育の実態を知りたいと願う。先生は、校長先生を含めて3名、日本人の平松先生、パラオ人の先生であったという。
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