2009年1月14日水曜日

Palau通信第1便

30分遅れて、午前8時30分に、家を出発。出かけに、Shin教授(Stanford大学)からの電話で、あれこれと話し込む。彼の希望を聞き入れる方向で、スケジュール調整に努めた。結局は、韓国式に「後で話す」事に決した。
 午後9時25分に福岡空港国際線に到着。すでに全員(稲葉・崔・原)が手続きを終えていた。慌てて、手続きカウンターに向かう。Continental Air LineはJAlともANAとも提携しない航空会社であるそうで、JALのカードの威力を発揮できず。
 福岡からPalauまでの航空券2枚を受け取る。福岡―Guam.,Guam―-Pala共に座席はエコノミークラス5C。出国審査を終えて、空港待合室でメールチェック。空腹を覚えたのと、日本食を口にしたかったので、売店でおにぎりを購入。昆布おにぎりは105円。
 搭乗前に、早速、皆で南洋庁による統治方式に関する議論に花が咲く。誰一人として、見ぬPalauへの期待感が気分を高揚するのか。
 Guam.,行きの座席は4名共にバラバラであったので、畿内で熟睡できたのは、幸いであった。機内食だと言って、無理に起こされた後、持参した資料(引揚の記録)を通読。南洋群島の引揚の概観を付け焼き刃的に頭にたたき込む。
  1、昭和18年11月から、婦女子を中心に引揚が開始されたようである。
  2,各島における引揚は、農耕の有無によった。農耕自活可能なクサイア島やポナペ島などは、婦女子も残留し、日本軍の勝利を信じ続けたようである。
  3,昭和19年2月17日:赤城丸爆沈、婦女子500余名が死亡
    昭和19年3月6日:アメリカ丸爆沈、婦女子500余名死亡。
    昭和19年6月:千代丸および白山丸爆沈、婦女子380名が死亡
  4,昭和18年12月までの南洋群島からの引揚者
    ①パラオ:4920名
    ②ヤップ:820名
    ③サイパン:2596名
    ④テニアン:1658名
    ⑤ロタ:387名
    ⑥トラック:3246名
    ⑦ポナペ:2208名
    ⑧ヤルート:362名
      総計:16179名
    ⑨海没遭難者:1580名
  5,降伏文書の調印
    ①ロタ:9月2日
    ②ヤップ:9月5日
    ③クサイ:9月10日
    ④ポナペ:9月11日
    ⑤トラック:10月初旬
    ⑥ヤルート:8月25日占領

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