30分遅れて、午前8時30分に、家を出発。出かけに、Shin教授(Stanford大学)からの電話で、あれこれと話し込む。彼の希望を聞き入れる方向で、スケジュール調整に努めた。結局は、韓国式に「後で話す」事に決した。
午後9時25分に福岡空港国際線に到着。すでに全員(稲葉・崔・原)が手続きを終えていた。慌てて、手続きカウンターに向かう。Continental Air LineはJAlともANAとも提携しない航空会社であるそうで、JALのカードの威力を発揮できず。
福岡からPalauまでの航空券2枚を受け取る。福岡―Guam.,Guam―-Pala共に座席はエコノミークラス5C。出国審査を終えて、空港待合室でメールチェック。空腹を覚えたのと、日本食を口にしたかったので、売店でおにぎりを購入。昆布おにぎりは105円。
搭乗前に、早速、皆で南洋庁による統治方式に関する議論に花が咲く。誰一人として、見ぬPalauへの期待感が気分を高揚するのか。
Guam.,行きの座席は4名共にバラバラであったので、畿内で熟睡できたのは、幸いであった。機内食だと言って、無理に起こされた後、持参した資料(引揚の記録)を通読。南洋群島の引揚の概観を付け焼き刃的に頭にたたき込む。
1、昭和18年11月から、婦女子を中心に引揚が開始されたようである。
2,各島における引揚は、農耕の有無によった。農耕自活可能なクサイア島やポナペ島などは、婦女子も残留し、日本軍の勝利を信じ続けたようである。
3,昭和19年2月17日:赤城丸爆沈、婦女子500余名が死亡
昭和19年3月6日:アメリカ丸爆沈、婦女子500余名死亡。
昭和19年6月:千代丸および白山丸爆沈、婦女子380名が死亡
4,昭和18年12月までの南洋群島からの引揚者
①パラオ:4920名
②ヤップ:820名
③サイパン:2596名
④テニアン:1658名
⑤ロタ:387名
⑥トラック:3246名
⑦ポナペ:2208名
⑧ヤルート:362名
総計:16179名
⑨海没遭難者:1580名
5,降伏文書の調印
①ロタ:9月2日
②ヤップ:9月5日
③クサイ:9月10日
④ポナペ:9月11日
⑤トラック:10月初旬
⑥ヤルート:8月25日占領
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