先日、福岡市総合図書館に、ぶらりと立ち寄った。昭和20年8月15日以降の『西日本新聞』記事を読むためである。その動機は、出水薫先生の力作に触発されたからである。
「敗戦後の博多港における朝鮮人帰国について : 博多引揚援護局『局史』を中心とした検討」(出版年:1993/11/15、刊行元:九州大学法政学会、法政研究 ー 60(1)ー p71-101 / Journal of Law and Politics 60(1) p71-101)
出水先生が依拠したのは『西日本新聞』であったが、出水先生の視点とは反対に、福岡に引き揚げてきた日本人たちに関する記事を通読したいと願ったからである。
ところで、マイクロフィルムを返却するときに、カウンターで一心不乱に業務に専心なさっておいでの司書の方の邪魔になると思いつつも、ふと尋ねた。引揚記録に関心を持っています、と。すると、『太平洋戦争白書』を紹介してくださった。併せて、図書館職員のボランティアで完成した『日の雨が降った』(葦書房、1986年)も。
恐るべきは米軍の調査遂行能力の高さと的確なニーズ把握。
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太平洋戦争白書 / 米国戦略爆撃調査団[編]
出版者ーー東京 : 日本図書センター
出版年ーー1992.6
大きさーー冊 ; 31cm
別書名
OH:The United States strategic bombing survey
OR:Final reports of the United States Strategic Bombing Survey, 1945-47
一般注記:背の書名: The United States strategic bombing survey.
「米国戦略爆撃調査団報告書」のうち対日戦に関する最終報告書(Final reports fo the United States Strategic Bombing Survey, 1945-47)の複製
目次:第1巻:本部報告. 第2巻-第5巻:民間防衛部門. 第6巻:医療部門. 第7巻:戦意部門.第8巻-第12巻:航空機部門. 第13巻:基礎資材部門. 第14巻:資本財・設備・建設部門、第15巻:電力部門. 第16巻:労働力・食糧・民需部門. 第17巻:軍需部門.第18巻-第19巻:石油化学部門. 第20巻:全般的経済効果部門. 第21巻:運輸部門.第22巻-第23巻:都市部門(1-2). 第24巻-第26巻:陸軍分析部門(1-3).第27巻-第37巻:海軍分析部門(1-11). 第38巻-第48巻:物質的被害部門(1-11).第49巻-第50巻:情報部門.
著者標目:United States Strategic Bombing Survey
分 類:NDC8:210.75
本文言語:英語
コード類:書誌ID=20130721 NCID=BN08679754
2009年1月27日火曜日
2009年1月25日日曜日
箏「乱輪舌」
江戸時代の名人、八つ橋検校が作曲したと伝えられる箏曲「乱輪舌」を聞く。派手さやダイナミックさを持たない玄人好みの地味な曲だが、それだけに奏者の力量が試されよう。段物毎に異なるリズムとテンポ。短い曲だけに、聴衆に与える感動を、奏者はどのように作り出すのか?計算尽くされた技法こそ、プロかアマかの違いか?
17世紀の作曲家、八つ橋検校は、ピアノではない楽器を用いたので、そのメロディーは大きく異なる。
17世紀の作曲家、八つ橋検校は、ピアノではない楽器を用いたので、そのメロディーは大きく異なる。
敬愛する森田先生
先日来、森田芳夫先生編集の『朝鮮終戦の記録』(厳南堂書店)を熟読している。面白い。例によって、「記録の名人」による編集である。無味乾燥の各種データと引揚者オーラルヒストリーの羅列であり、まったくの衒いも華美な化粧もない。あるのは、事実を記録しようとする執念。
京城帝国大学法文学部史学科卒業の森田先生ならではの、史料集。韓国には、歴代の実録があるが、森田先生の願いは、在朝日本人たちの36年間の実録を編纂することにあったのではないか。
それにしても、森田先生の声咳に接する機会が多かった時、戦前の「緑旗連盟」、「国民総力朝鮮連盟」に関するインタビュー出来なかったことが惜しまれる。
そして、「国民総力朝鮮連盟」荻山秀雄氏とも面識があったが、彼のインタビューの機会もなかった。
森田先生の場合、あくまでも沈黙を守っておいでであったからだが、荻山氏の場合、彼の経歴を知らなかったからである。
京城帝国大学法文学部史学科卒業の森田先生ならではの、史料集。韓国には、歴代の実録があるが、森田先生の願いは、在朝日本人たちの36年間の実録を編纂することにあったのではないか。
それにしても、森田先生の声咳に接する機会が多かった時、戦前の「緑旗連盟」、「国民総力朝鮮連盟」に関するインタビュー出来なかったことが惜しまれる。
そして、「国民総力朝鮮連盟」荻山秀雄氏とも面識があったが、彼のインタビューの機会もなかった。
森田先生の場合、あくまでも沈黙を守っておいでであったからだが、荻山氏の場合、彼の経歴を知らなかったからである。
2009年1月23日金曜日
小説の人物造型
プロとアマチュアの違いは、簡単。Toolの多寡。大工にしろ、理髪師にしろ、そのToolが質と量の両面で大きく異なる。金槌一つしかない大工がいないように、プロの理髪師の腰ベルトには鋏と剃刀が並ぶ。
小説の人物造型にしても、いざ、主人公の名前を「****」と決めても、その容貌、趣味、好きな男性像、口癖などが、具体的に決定すべき事柄が多い。
どこに住み、食べ物は何が好きだろうか、何が好きな飲み物だろうか。パジャマ派か浴衣派?起床から就寝まで、どのような生活スタイルだろうか。そうだ、子供は何人?それとも独身。
まだまだ決めなくてはならないことの多さに気づく。
人物造型、舞台設定、ストーリー設定、主題、小説手法ーー。
ストーリーは。冒頭の一言は?プロットは?
在日Koreanとするか、北海道出身とするか、それとも時代設定を昭和20年代の初めとして、旧満州からの引揚者とするか。
小説の人物造型にしても、いざ、主人公の名前を「****」と決めても、その容貌、趣味、好きな男性像、口癖などが、具体的に決定すべき事柄が多い。
どこに住み、食べ物は何が好きだろうか、何が好きな飲み物だろうか。パジャマ派か浴衣派?起床から就寝まで、どのような生活スタイルだろうか。そうだ、子供は何人?それとも独身。
まだまだ決めなくてはならないことの多さに気づく。
人物造型、舞台設定、ストーリー設定、主題、小説手法ーー。
ストーリーは。冒頭の一言は?プロットは?
在日Koreanとするか、北海道出身とするか、それとも時代設定を昭和20年代の初めとして、旧満州からの引揚者とするか。
2009年1月22日木曜日
毎日、ブログを書き続ける困難さ
かって、稀代のメモ魔「K」がいた。彼の日記の巻数は小型の手帳、大学ノート、便箋、半紙など297冊を数えるそうである。執筆期間は大正8年から昭和19年まで。
尊敬したい、毎日書き続けることを。寸暇を惜しむことは出来る。しかしメモを書き続けることは難しい。
本ブログは誰一人として読者を想定していない。あくまでも一人だけが書きつらねることで、自らの自戒を込めて生きる事を目的とする。そして、みずからのメモ代わりにも。
小説を書きたい。主人公は、裕希子。名は決まったが、年齢や職業や容姿は未定。ストーリーも不明。時代も。舞台も。
我が愛するBerkeleyにすれば、舞台設定は簡単か。知り尽くしているので。
とはいえ、その考える精神的な余裕がない。
尊敬したい、毎日書き続けることを。寸暇を惜しむことは出来る。しかしメモを書き続けることは難しい。
本ブログは誰一人として読者を想定していない。あくまでも一人だけが書きつらねることで、自らの自戒を込めて生きる事を目的とする。そして、みずからのメモ代わりにも。
小説を書きたい。主人公は、裕希子。名は決まったが、年齢や職業や容姿は未定。ストーリーも不明。時代も。舞台も。
我が愛するBerkeleyにすれば、舞台設定は簡単か。知り尽くしているので。
とはいえ、その考える精神的な余裕がない。
2009年1月18日日曜日
沖縄人のPalau体験
読谷村史 「戦時記録」上巻 第二章 読谷山村民の戦争体験 、 第五節 海外での戦争体験
津波氏(大正8年生)「 南洋出稼ぎ移民の戦争体験体験記(パラオ)」
山内氏(大正七年生)
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/index.htm
津波氏(大正8年生)「 南洋出稼ぎ移民の戦争体験体験記(パラオ)」
山内氏(大正七年生)
http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/index.htm
目の前の風景と、昔の写真
台湾中央研究院調査2008年12月25日(木)
(1)河原先生(高校教師)ーー不明
(2)日治時期台湾高等官履歴、国史館刊
(3)『植民地台湾』陳芳明、麦田出版
(4)差異(DIFFERNCE)から出発した植民地研究――中国・朝鮮半島・台湾・日本は、同一な漢字文化圏であった、つまり共通化した文化圏――
(5)台湾語の近代化が挫折
(6)外省人は、日本人と同一な存在、同一な漢字文化圏に属する支配者
(7)外省人も、日本人を持ち出すことで、彼らの支配の正当性を打ち出す。
(8)『満鮮吟草』--中国知識人による満州・朝鮮半島巡遊記――台湾大学図書館所蔵
(9)『台湾建築会誌』第1集第2号
1,台湾南警察署
2,台湾南警察署廊下
3,高等法院長官官舎
4,飛行第8連隊連隊長宿舎
5,近藤商会
6,台北南警察署庁舎図
7,高等法院院長官舎図
8,飛行第8連隊連隊長宿舎図
9,飛行第8連隊将校アパートメント図
10,飛行第8連隊奉任官宿舎図
11,近藤商会店舗図
(10)『台湾建築会誌』第1集第4号
1,台北帝国大学文政学部校舎写真&図
(11)『台湾建築会誌』第1集第5号
1,台北帝国大学総長官舎写真&図
2,龍山寺
(12)『台湾建築会誌』第3集第6号
1,台北帝国大学写真&図
(2)日治時期台湾高等官履歴、国史館刊
(3)『植民地台湾』陳芳明、麦田出版
(4)差異(DIFFERNCE)から出発した植民地研究――中国・朝鮮半島・台湾・日本は、同一な漢字文化圏であった、つまり共通化した文化圏――
(5)台湾語の近代化が挫折
(6)外省人は、日本人と同一な存在、同一な漢字文化圏に属する支配者
(7)外省人も、日本人を持ち出すことで、彼らの支配の正当性を打ち出す。
(8)『満鮮吟草』--中国知識人による満州・朝鮮半島巡遊記――台湾大学図書館所蔵
(9)『台湾建築会誌』第1集第2号
1,台湾南警察署
2,台湾南警察署廊下
3,高等法院長官官舎
4,飛行第8連隊連隊長宿舎
5,近藤商会
6,台北南警察署庁舎図
7,高等法院院長官舎図
8,飛行第8連隊連隊長宿舎図
9,飛行第8連隊将校アパートメント図
10,飛行第8連隊奉任官宿舎図
11,近藤商会店舗図
(10)『台湾建築会誌』第1集第4号
1,台北帝国大学文政学部校舎写真&図
(11)『台湾建築会誌』第1集第5号
1,台北帝国大学総長官舎写真&図
2,龍山寺
(12)『台湾建築会誌』第3集第6号
1,台北帝国大学写真&図
反省の弁
この数年、というより24歳の時に、最初に渡米して以来、アメリカかぶれの私であったが、それから35年経過した今、少しずつ反省の弁を述べつつあることに気づく。
たとえ笑い話であろうとも、スターバックスの店舗展開を、現代都市の基準としてきた私であったが、それさえ愚かなアメリカ文化至上主義による愚考であったと気づく。
たとえ笑い話であろうとも、スターバックスの店舗展開を、現代都市の基準としてきた私であったが、それさえ愚かなアメリカ文化至上主義による愚考であったと気づく。
2009年1月17日土曜日
時間がない、時間が
1月の半ばになり、すでに通年講義の最終回を迎えた。
今年度の講義を通して強調してきた「Global的思考の勧め」は、今、大きな転換点を迎えた。いうまでもなく、証券会社リーマンブラザーズの破綻を機に発生した世界金融危機を眼前にして、「Netwaork型思考」+「アメリカ型ライフスタイル」の限界に直面したからである。
この続きを書きたいが、時間がない。
これから補講に出発。帰りは午後4時か?
そして博士論文の閲読、そして恩師の自宅にてコンピュータ修理などなど。
論文執筆にも取り組みたいが、その時間が。
今年度の講義を通して強調してきた「Global的思考の勧め」は、今、大きな転換点を迎えた。いうまでもなく、証券会社リーマンブラザーズの破綻を機に発生した世界金融危機を眼前にして、「Netwaork型思考」+「アメリカ型ライフスタイル」の限界に直面したからである。
この続きを書きたいが、時間がない。
これから補講に出発。帰りは午後4時か?
そして博士論文の閲読、そして恩師の自宅にてコンピュータ修理などなど。
論文執筆にも取り組みたいが、その時間が。
2009年1月14日水曜日
Palau通信第6便:パラオのKorean
南洋庁下のパラオにおける朝鮮人を考えるときに、その実態は今なお不明である。しかし次のような記事が偶然に眼に飛び込んだ。
著者は、「パ ラ オ の 農 産 業」社団法人 太平洋諸島地域研究所 理事長 小深田 貞雄氏である。
***********************
「私は昭和15年(1940年)韓国移民約10家族をパラオに移送するため、釜山へ出張した。航海中出産があったり思い出はつきない。」
http://www.jaipas.or.jp/120/120_3.htm
著者は、「パ ラ オ の 農 産 業」社団法人 太平洋諸島地域研究所 理事長 小深田 貞雄氏である。
***********************
「私は昭和15年(1940年)韓国移民約10家族をパラオに移送するため、釜山へ出張した。航海中出産があったり思い出はつきない。」
http://www.jaipas.or.jp/120/120_3.htm
Palau通信第5便
2009年1月9日
パラオに縁を持つ原君のルート探しが始まった。僅かな情報によると、彼の祖父はコロール島に居住なさったそうである。若干の混乱があったものの、熱帯産業研究所に勤務なさったと判明する。その研究所があった場所を探すために車を走らせたが、コロール市内ではなく、研究所はパラオ本島アイミリーキ村に設立されたというので、早速、その地に向かう。地元の人々が「Nekken」と記憶する場所である。その一帯は確かに人工的に植樹された椰子の木に囲まれた地域であり、研究目的に人為的な植林が実施されたと推測できるが、現在、その研究所が存在した痕跡を探すことは不可能なほど密林に覆われている。木々を取り除き、草を刈り、表面の土壌を除去すれば、何かの支柱石などが発見できようが、その努力は無駄であり、むしろ自然に還るようにすべきであろう。人々の記憶の中に、「Nekken」という言葉が残り続けようとも。
パラオに縁を持つ原君のルート探しが始まった。僅かな情報によると、彼の祖父はコロール島に居住なさったそうである。若干の混乱があったものの、熱帯産業研究所に勤務なさったと判明する。その研究所があった場所を探すために車を走らせたが、コロール市内ではなく、研究所はパラオ本島アイミリーキ村に設立されたというので、早速、その地に向かう。地元の人々が「Nekken」と記憶する場所である。その一帯は確かに人工的に植樹された椰子の木に囲まれた地域であり、研究目的に人為的な植林が実施されたと推測できるが、現在、その研究所が存在した痕跡を探すことは不可能なほど密林に覆われている。木々を取り除き、草を刈り、表面の土壌を除去すれば、何かの支柱石などが発見できようが、その努力は無駄であり、むしろ自然に還るようにすべきであろう。人々の記憶の中に、「Nekken」という言葉が残り続けようとも。
パラオ通信第4便
2009年1月8日
Peleliu州政府発行の入島許可書06358を3ドルで購入し、Peleliu島に上陸する。
コロール島から約50キロ離れたパラオリーフの最南端に位置するPeleliuは、昔であれば、3日かけて渡る距離であったと言うが、我々の快速ボートは最短時間40分で到着する。しかしながら、私たちのボートは船長の厚意で途中の見物スポットに立ち寄りながら、ゆっくりと進み、各所で南海ならではの風光明媚な観光スポットを楽しむ。
Peleliu島に近づくにつれて、島全体は遠浅であるので、港への航路の両側を杭で示してあり、船はその間を巧みに通り過ぎる。パラオの中心地コロール島から遠く隔絶した島に、よもや車が走り廻っていると言えば、Peleliu島民にお叱りを受けるだろうが、我々を乗せた船が港に接岸して、陸に第一歩を記したとき、最初に眼に飛び込んだのは、島を一周する舗装道路であった。場違いなほどに大きな道路である。いかなる産業が島を支えているかと思いやる内に、我々一行を乗せたマイクロバスは、一軒のホテルの玄関に到着した。ビーチに隣接する絶好な地理的な位置に、One Roomがそれぞれ独立するアバイ風建物が八棟、玄関の右手にGift shopを兼ねたCheck in Counterがあった。驚くべきは、そのホテルの主人が若き日本女性であったことである。出身も、動機も尋ねることはなかったが、このPeleliu島に居住し、現地のPeleliu人男性と結婚し、三名のお子様をお持ちの日本人が、我々の前に姿を現したのであった。よもや、この地に日本人がといえば、時代遅れの誹りを免れないだろう。しかし、主人に加えて、さらにホテルのスタッフとして四名の日本人(男性一名、女性三名)も居住していると聞き、我が耳を疑ったほどである。その内のお一人の女性は福岡市出身であった。
ホテルの主人も日本人一行の突然の来訪に対して、快く迎入れてくれた。話しに花が咲く内に主人が漏らした言葉は、日本人の滞在は長くて5日から6日、それに比べて欧米人は最低でも3週間、バケーションの長さが断然違います、と。
とはいえ、我々のように、ダイビングもせず、ビーチで泳ぐこともせず、ひたすら各地の戦跡を尋ね廻る人間の出現に、ホテルの主人も、過去の慰霊団関係者であればいざ知らず、それと無縁な歴史研究者の一団に、逆に新鮮さを覚えていたようであった。
話しぶりから推測して、南洋の孤島の、さらに離れ島に定着した日本人のお子さんたちはPeleliu島にある小学校に通学しているが、中学校に進学するときから日本に送り返したいと親は希望する。僅か165戸で、周囲が数キロのPeleliuで教育を受けた南洋育ちの子供たちが日本に足を踏み入れたときに、どのような文化落差を感じ、その落差ははたして埋めることは可能であろうかと、人ごとながら余計な気遣いをするほどである。
Peleliu訪問の目的は、世界に進出した日本人に会うためではなく、あくまでも当初通りに植民地空間の痕跡(小学校と公学校など)とそれに関する資料(主にオーラルヒストリーを中心に)を探し出すためであった。党内を一周すればするほどに、歴史を捨象し、歴史と無関係でいたいと願う日本人ダイバーたちの無邪気な笑顔に接する。島の周辺にある珊瑚礁と回遊する魚群を楽しむ彼らの無関心さを認めつつも、その一方で日本人の「愚かな歴史」の蓄積にも関心を向けて欲しいと願わずにいれられない。
平坦なPeleliu島全体に戦跡が残されている。しばしば激戦地であったと報じられるが、それは完全な誤りである。兵器・食糧・人員・情報を絶たれた旧日本帝国軍に勝ち目など有るはずはなく、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍の前に、如何に持久戦をとげるか、いかに降伏を延ばすかという「カミカゼ」特攻精神で、旧日本帝国軍の戦いは始まった。誰が考えても、南太平洋の孤島で繰り広げられた戦いは無意味であった。1944年(昭和19年)当時の高揚した戦意のなかで、日本軍の勝利だけを信じて戦地に赴いた兵士たちに、疑問の余地などはなかった。残り少ない乾パンと150発の銃弾だけでは。アメリカ軍に勝てと戦意を奮い立たせた将校たちの真実は、何であっただろうか。
南国特有の密林に飲み込まれてしまったPeleliu公学校址は、僅かに二本のセメント門柱が立っているだけである。すでに学校跡であると推測させるものは見あたらないが、偶然に出会った老婆によれば、彼女たちは裸足で弁当を背負って片道6キロの道のりを通ったという。正課4年、補習科2年の6年間、毎日、毎日。彼女の笑い話しを紹介しておこう。「今の子供はスニーカーを履き、スクールバスに乗って通学するが、毎日がAbsent」。自分の孫たちを指さしながら、皮肉を浴びせながら。
美しい日本語の響き、豊富な日本語の語彙と言い回し、それが実現した南太平洋の孤島における日本語教育の実態を知りたいと願う。先生は、校長先生を含めて3名、日本人の平松先生、パラオ人の先生であったという。
Peleliu州政府発行の入島許可書06358を3ドルで購入し、Peleliu島に上陸する。
コロール島から約50キロ離れたパラオリーフの最南端に位置するPeleliuは、昔であれば、3日かけて渡る距離であったと言うが、我々の快速ボートは最短時間40分で到着する。しかしながら、私たちのボートは船長の厚意で途中の見物スポットに立ち寄りながら、ゆっくりと進み、各所で南海ならではの風光明媚な観光スポットを楽しむ。
Peleliu島に近づくにつれて、島全体は遠浅であるので、港への航路の両側を杭で示してあり、船はその間を巧みに通り過ぎる。パラオの中心地コロール島から遠く隔絶した島に、よもや車が走り廻っていると言えば、Peleliu島民にお叱りを受けるだろうが、我々を乗せた船が港に接岸して、陸に第一歩を記したとき、最初に眼に飛び込んだのは、島を一周する舗装道路であった。場違いなほどに大きな道路である。いかなる産業が島を支えているかと思いやる内に、我々一行を乗せたマイクロバスは、一軒のホテルの玄関に到着した。ビーチに隣接する絶好な地理的な位置に、One Roomがそれぞれ独立するアバイ風建物が八棟、玄関の右手にGift shopを兼ねたCheck in Counterがあった。驚くべきは、そのホテルの主人が若き日本女性であったことである。出身も、動機も尋ねることはなかったが、このPeleliu島に居住し、現地のPeleliu人男性と結婚し、三名のお子様をお持ちの日本人が、我々の前に姿を現したのであった。よもや、この地に日本人がといえば、時代遅れの誹りを免れないだろう。しかし、主人に加えて、さらにホテルのスタッフとして四名の日本人(男性一名、女性三名)も居住していると聞き、我が耳を疑ったほどである。その内のお一人の女性は福岡市出身であった。
ホテルの主人も日本人一行の突然の来訪に対して、快く迎入れてくれた。話しに花が咲く内に主人が漏らした言葉は、日本人の滞在は長くて5日から6日、それに比べて欧米人は最低でも3週間、バケーションの長さが断然違います、と。
とはいえ、我々のように、ダイビングもせず、ビーチで泳ぐこともせず、ひたすら各地の戦跡を尋ね廻る人間の出現に、ホテルの主人も、過去の慰霊団関係者であればいざ知らず、それと無縁な歴史研究者の一団に、逆に新鮮さを覚えていたようであった。
話しぶりから推測して、南洋の孤島の、さらに離れ島に定着した日本人のお子さんたちはPeleliu島にある小学校に通学しているが、中学校に進学するときから日本に送り返したいと親は希望する。僅か165戸で、周囲が数キロのPeleliuで教育を受けた南洋育ちの子供たちが日本に足を踏み入れたときに、どのような文化落差を感じ、その落差ははたして埋めることは可能であろうかと、人ごとながら余計な気遣いをするほどである。
Peleliu訪問の目的は、世界に進出した日本人に会うためではなく、あくまでも当初通りに植民地空間の痕跡(小学校と公学校など)とそれに関する資料(主にオーラルヒストリーを中心に)を探し出すためであった。党内を一周すればするほどに、歴史を捨象し、歴史と無関係でいたいと願う日本人ダイバーたちの無邪気な笑顔に接する。島の周辺にある珊瑚礁と回遊する魚群を楽しむ彼らの無関心さを認めつつも、その一方で日本人の「愚かな歴史」の蓄積にも関心を向けて欲しいと願わずにいれられない。
平坦なPeleliu島全体に戦跡が残されている。しばしば激戦地であったと報じられるが、それは完全な誤りである。兵器・食糧・人員・情報を絶たれた旧日本帝国軍に勝ち目など有るはずはなく、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍の前に、如何に持久戦をとげるか、いかに降伏を延ばすかという「カミカゼ」特攻精神で、旧日本帝国軍の戦いは始まった。誰が考えても、南太平洋の孤島で繰り広げられた戦いは無意味であった。1944年(昭和19年)当時の高揚した戦意のなかで、日本軍の勝利だけを信じて戦地に赴いた兵士たちに、疑問の余地などはなかった。残り少ない乾パンと150発の銃弾だけでは。アメリカ軍に勝てと戦意を奮い立たせた将校たちの真実は、何であっただろうか。
南国特有の密林に飲み込まれてしまったPeleliu公学校址は、僅かに二本のセメント門柱が立っているだけである。すでに学校跡であると推測させるものは見あたらないが、偶然に出会った老婆によれば、彼女たちは裸足で弁当を背負って片道6キロの道のりを通ったという。正課4年、補習科2年の6年間、毎日、毎日。彼女の笑い話しを紹介しておこう。「今の子供はスニーカーを履き、スクールバスに乗って通学するが、毎日がAbsent」。自分の孫たちを指さしながら、皮肉を浴びせながら。
美しい日本語の響き、豊富な日本語の語彙と言い回し、それが実現した南太平洋の孤島における日本語教育の実態を知りたいと願う。先生は、校長先生を含めて3名、日本人の平松先生、パラオ人の先生であったという。
パラオ通信第3便
2009年1月7日
「鶏鳴」
この言葉をすっかり忘れてしまっていたが、パラオの朝は、民宿の四方から聞こえてくる鳴き声が、起床の合図となった。
「 」
本日の調査の圧巻は、昭和15年建設の官弊大社南洋神社であった。
日本全国津々浦々に鎮座する神々の社を、海外の植民地にも拡大することは、1901年(明治34年)創建の台湾神社がその嚆矢である。その後も、いわゆる外地に神社が多数創建されたが、各地域に官弊大社が創建され始めるのは、官弊大社・樺太神社(1911年・明治44年)をもって最初とする。その後、1919年(大正8年)7月18日付けの内閣告示第12号「朝鮮神社を創立し官弊大社に列格せらるる旨仰出」によって、朝鮮神社創建が決定されたものの、1官弊大社「朝鮮神宮」の創建は1925年(大正14年)10月まで待たざるを得なかった。祭神を天照大神と明治天皇と定めて鎮座式が挙行されたが、その祭神は外地の官弊大社のモデルを提供することとなった。
1901年(明治34年)創建の台湾神社は、1944年(昭和19年)6月に官弊大社「台湾神宮」に格上げされ、祭神は天照大神であったし、大陸に目を向けると、遼東半島旅順に官弊大社「関東神宮」が創建され、1944年(昭和19年)10月1日に鎮座式が挙行された。祭神は、同じく天照大神と明治神宮であった。
さて、南洋神社設立の経緯を辿れば、皇紀2600年を祝福した1940年(昭和15年)の紀元節(2月11日)の記念行事であったが、実際には計画が大幅に遅れて、1940年(昭和15年)11月1日、官弊大社の鎮座式が開催された。祭神は、天照大神。
今ここで、改めて「日本帝国の南進基地」建設と皇国臣民化運動と結びつけて、官弊大社南洋神社を説明する事に異論を差し挟むものではないが、我が関心は、さまざまな理論的説明よりも南洋神社神域の実測調査、平面調査、データの獲得にある。さらに言えば、設計図さえ手にはいるのであれば、それで解決する問題であるが、それが困難である場合、実測図を作るために、測量さえ実施したいとも願う。
我が知る限り、朝鮮神宮・台湾神宮はその痕跡を失っている以上、その現存状態が比較的良好な南洋神社の調査は、不可欠である(樺太神社に関する情報は未入手)。
ちなみにアメリカ軍の爆撃が激しくなるにつれて、昭和20年5月以降に、パラオ本島大和村に仮本殿が建造されたという。空襲によって、本殿が甚大な被害を受けたからでもある。
ところで今日も暑い一日であった。水分補給に何本のペットボトルを飲み干しただろうか。
*******************************************************
南洋神社
天照大神
昭和15年11月1日
パラオ島コロール町アルミス高地
官幣大社
朝日神社
天照大神
昭和14年9月3日
パラオ島朝日村
清水神社
天照大神
昭和15年6月1日
パラオ島清水村
瑞穂神社
天照大神金比羅権現
昭和15年9月1日
パラオ島瑞穂村
「鶏鳴」
この言葉をすっかり忘れてしまっていたが、パラオの朝は、民宿の四方から聞こえてくる鳴き声が、起床の合図となった。
「 」
本日の調査の圧巻は、昭和15年建設の官弊大社南洋神社であった。
日本全国津々浦々に鎮座する神々の社を、海外の植民地にも拡大することは、1901年(明治34年)創建の台湾神社がその嚆矢である。その後も、いわゆる外地に神社が多数創建されたが、各地域に官弊大社が創建され始めるのは、官弊大社・樺太神社(1911年・明治44年)をもって最初とする。その後、1919年(大正8年)7月18日付けの内閣告示第12号「朝鮮神社を創立し官弊大社に列格せらるる旨仰出」によって、朝鮮神社創建が決定されたものの、1官弊大社「朝鮮神宮」の創建は1925年(大正14年)10月まで待たざるを得なかった。祭神を天照大神と明治天皇と定めて鎮座式が挙行されたが、その祭神は外地の官弊大社のモデルを提供することとなった。
1901年(明治34年)創建の台湾神社は、1944年(昭和19年)6月に官弊大社「台湾神宮」に格上げされ、祭神は天照大神であったし、大陸に目を向けると、遼東半島旅順に官弊大社「関東神宮」が創建され、1944年(昭和19年)10月1日に鎮座式が挙行された。祭神は、同じく天照大神と明治神宮であった。
さて、南洋神社設立の経緯を辿れば、皇紀2600年を祝福した1940年(昭和15年)の紀元節(2月11日)の記念行事であったが、実際には計画が大幅に遅れて、1940年(昭和15年)11月1日、官弊大社の鎮座式が開催された。祭神は、天照大神。
今ここで、改めて「日本帝国の南進基地」建設と皇国臣民化運動と結びつけて、官弊大社南洋神社を説明する事に異論を差し挟むものではないが、我が関心は、さまざまな理論的説明よりも南洋神社神域の実測調査、平面調査、データの獲得にある。さらに言えば、設計図さえ手にはいるのであれば、それで解決する問題であるが、それが困難である場合、実測図を作るために、測量さえ実施したいとも願う。
我が知る限り、朝鮮神宮・台湾神宮はその痕跡を失っている以上、その現存状態が比較的良好な南洋神社の調査は、不可欠である(樺太神社に関する情報は未入手)。
ちなみにアメリカ軍の爆撃が激しくなるにつれて、昭和20年5月以降に、パラオ本島大和村に仮本殿が建造されたという。空襲によって、本殿が甚大な被害を受けたからでもある。
ところで今日も暑い一日であった。水分補給に何本のペットボトルを飲み干しただろうか。
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南洋神社
天照大神
昭和15年11月1日
パラオ島コロール町アルミス高地
官幣大社
朝日神社
天照大神
昭和14年9月3日
パラオ島朝日村
清水神社
天照大神
昭和15年6月1日
パラオ島清水村
瑞穂神社
天照大神金比羅権現
昭和15年9月1日
パラオ島瑞穂村
パラオ通信第2便
今日の収穫は、PalauのDay care centerにおいて、パラオ人老婆の口から「アリラン」の歌が飛び出したことである。「アリラン、アリラン、アラリヨ、アリラン『とうげ』ノモガンダ」、と。
注意深く聞いたならば、「アリランコゲルル ノモガンダ」とあるべき歌詞であるが、この老婆は、なぜかしら「アリラン『とうげ』ノモガンダ」と歌ったことに興味を引かれる。
誠に残念ながら、録音器を持参しなかったので、その声を再現できないものの、老婆の記憶の中の歌詞に迷いはなかった。数十年ぶりに歌う「アリラン」は、老婆にとって、記憶の底から絞り出すメロディーであった。そして、敗戦以前にパラオに育った老人の多くは「アリラン」を歌えるそうである。朝鮮人から教わったからだというが、いつ、いかなる機会に、なぜ記憶する理由があったのだろうか。
老婆の話しは、更に続く。
1945年8月15日以前に、多数の朝鮮人がパラオに居住していたこと。彼らは沖縄人・パラオ人と共に混在しながら、パラオの裏通りに住んでいたこと。パラオ在住の朝鮮人のために、京城(当時)で製作された朝鮮映画がパラオの映画館で上映されたこと。日本人と共に、朝鮮人とも一緒にパラオ人たちがコロール島を脱出して疎開し、敗戦を知らず2~3週間の間、パラオ本島に隠れ住んでいたこと。そしてアメリカ軍が投下した敗戦を知らせるビラによって、パラオ人をはじめとする全員がコロール島に戻ってくると、日本人と朝鮮人の位置が逆転して、朝鮮人が肩で風を切って歩いていたことなどなどを語った。
パラオの町の中は、約2満名の国民国家が示すように、交通信号がゼロである。多くの車両が日本製の中古であり、右側通行に右ハンドルであるので、一見して奇妙な錯覚に陥る。本来であれば、右側通行であれば、左ハンドルであるべきだが、日本製中古車を改造しないままに使用するために、不思議な車が町中を大手で走り回ることになる。
我らが借りたレンタカーで走り回った町中には、今なお60数年前に消滅した日本統治下の南洋庁関連建築物と日本人が居住した痕跡を探し出せる。思い出すままに列挙すれば、南洋庁コロール支社、昭南クラブ、パラオ公園、日本人墓地、南洋神社、パラオ医院、南海楼などなど。かってパラオに居住した方々の記憶に定着した植民地空間を地図に落とした資料が存在するからこそ、これらの建物の痕跡を眼前にして、その地図と確認しながら納得するわけである。しかしながら絵葉書や写真などの画像資料を通して、パラオの植民地空間を知る我々には、現在のパラオの変貌は顕著である。絵葉書や南洋庁発行各種出版物に紹介されるお馴染みの画像には、南海の楽園のイメージが強調される。椰子の並木道と日本風の商店街、着物姿の日本女性が歩くメインストリート、物資が溢れる街角などに対して、裸体に近い原住民像とのコントラストは興味深い。そして何よりも着物姿の女性、燕尾服姿の男性を取り囲む現地民を写したポートレートの多さは、やはり南海における日本人の優越感を誇示する画像に他ならない。
注意深く聞いたならば、「アリランコゲルル ノモガンダ」とあるべき歌詞であるが、この老婆は、なぜかしら「アリラン『とうげ』ノモガンダ」と歌ったことに興味を引かれる。
誠に残念ながら、録音器を持参しなかったので、その声を再現できないものの、老婆の記憶の中の歌詞に迷いはなかった。数十年ぶりに歌う「アリラン」は、老婆にとって、記憶の底から絞り出すメロディーであった。そして、敗戦以前にパラオに育った老人の多くは「アリラン」を歌えるそうである。朝鮮人から教わったからだというが、いつ、いかなる機会に、なぜ記憶する理由があったのだろうか。
老婆の話しは、更に続く。
1945年8月15日以前に、多数の朝鮮人がパラオに居住していたこと。彼らは沖縄人・パラオ人と共に混在しながら、パラオの裏通りに住んでいたこと。パラオ在住の朝鮮人のために、京城(当時)で製作された朝鮮映画がパラオの映画館で上映されたこと。日本人と共に、朝鮮人とも一緒にパラオ人たちがコロール島を脱出して疎開し、敗戦を知らず2~3週間の間、パラオ本島に隠れ住んでいたこと。そしてアメリカ軍が投下した敗戦を知らせるビラによって、パラオ人をはじめとする全員がコロール島に戻ってくると、日本人と朝鮮人の位置が逆転して、朝鮮人が肩で風を切って歩いていたことなどなどを語った。
パラオの町の中は、約2満名の国民国家が示すように、交通信号がゼロである。多くの車両が日本製の中古であり、右側通行に右ハンドルであるので、一見して奇妙な錯覚に陥る。本来であれば、右側通行であれば、左ハンドルであるべきだが、日本製中古車を改造しないままに使用するために、不思議な車が町中を大手で走り回ることになる。
我らが借りたレンタカーで走り回った町中には、今なお60数年前に消滅した日本統治下の南洋庁関連建築物と日本人が居住した痕跡を探し出せる。思い出すままに列挙すれば、南洋庁コロール支社、昭南クラブ、パラオ公園、日本人墓地、南洋神社、パラオ医院、南海楼などなど。かってパラオに居住した方々の記憶に定着した植民地空間を地図に落とした資料が存在するからこそ、これらの建物の痕跡を眼前にして、その地図と確認しながら納得するわけである。しかしながら絵葉書や写真などの画像資料を通して、パラオの植民地空間を知る我々には、現在のパラオの変貌は顕著である。絵葉書や南洋庁発行各種出版物に紹介されるお馴染みの画像には、南海の楽園のイメージが強調される。椰子の並木道と日本風の商店街、着物姿の日本女性が歩くメインストリート、物資が溢れる街角などに対して、裸体に近い原住民像とのコントラストは興味深い。そして何よりも着物姿の女性、燕尾服姿の男性を取り囲む現地民を写したポートレートの多さは、やはり南海における日本人の優越感を誇示する画像に他ならない。
Palau通信第1便
30分遅れて、午前8時30分に、家を出発。出かけに、Shin教授(Stanford大学)からの電話で、あれこれと話し込む。彼の希望を聞き入れる方向で、スケジュール調整に努めた。結局は、韓国式に「後で話す」事に決した。
午後9時25分に福岡空港国際線に到着。すでに全員(稲葉・崔・原)が手続きを終えていた。慌てて、手続きカウンターに向かう。Continental Air LineはJAlともANAとも提携しない航空会社であるそうで、JALのカードの威力を発揮できず。
福岡からPalauまでの航空券2枚を受け取る。福岡―Guam.,Guam―-Pala共に座席はエコノミークラス5C。出国審査を終えて、空港待合室でメールチェック。空腹を覚えたのと、日本食を口にしたかったので、売店でおにぎりを購入。昆布おにぎりは105円。
搭乗前に、早速、皆で南洋庁による統治方式に関する議論に花が咲く。誰一人として、見ぬPalauへの期待感が気分を高揚するのか。
Guam.,行きの座席は4名共にバラバラであったので、畿内で熟睡できたのは、幸いであった。機内食だと言って、無理に起こされた後、持参した資料(引揚の記録)を通読。南洋群島の引揚の概観を付け焼き刃的に頭にたたき込む。
1、昭和18年11月から、婦女子を中心に引揚が開始されたようである。
2,各島における引揚は、農耕の有無によった。農耕自活可能なクサイア島やポナペ島などは、婦女子も残留し、日本軍の勝利を信じ続けたようである。
3,昭和19年2月17日:赤城丸爆沈、婦女子500余名が死亡
昭和19年3月6日:アメリカ丸爆沈、婦女子500余名死亡。
昭和19年6月:千代丸および白山丸爆沈、婦女子380名が死亡
4,昭和18年12月までの南洋群島からの引揚者
①パラオ:4920名
②ヤップ:820名
③サイパン:2596名
④テニアン:1658名
⑤ロタ:387名
⑥トラック:3246名
⑦ポナペ:2208名
⑧ヤルート:362名
総計:16179名
⑨海没遭難者:1580名
5,降伏文書の調印
①ロタ:9月2日
②ヤップ:9月5日
③クサイ:9月10日
④ポナペ:9月11日
⑤トラック:10月初旬
⑥ヤルート:8月25日占領
午後9時25分に福岡空港国際線に到着。すでに全員(稲葉・崔・原)が手続きを終えていた。慌てて、手続きカウンターに向かう。Continental Air LineはJAlともANAとも提携しない航空会社であるそうで、JALのカードの威力を発揮できず。
福岡からPalauまでの航空券2枚を受け取る。福岡―Guam.,Guam―-Pala共に座席はエコノミークラス5C。出国審査を終えて、空港待合室でメールチェック。空腹を覚えたのと、日本食を口にしたかったので、売店でおにぎりを購入。昆布おにぎりは105円。
搭乗前に、早速、皆で南洋庁による統治方式に関する議論に花が咲く。誰一人として、見ぬPalauへの期待感が気分を高揚するのか。
Guam.,行きの座席は4名共にバラバラであったので、畿内で熟睡できたのは、幸いであった。機内食だと言って、無理に起こされた後、持参した資料(引揚の記録)を通読。南洋群島の引揚の概観を付け焼き刃的に頭にたたき込む。
1、昭和18年11月から、婦女子を中心に引揚が開始されたようである。
2,各島における引揚は、農耕の有無によった。農耕自活可能なクサイア島やポナペ島などは、婦女子も残留し、日本軍の勝利を信じ続けたようである。
3,昭和19年2月17日:赤城丸爆沈、婦女子500余名が死亡
昭和19年3月6日:アメリカ丸爆沈、婦女子500余名死亡。
昭和19年6月:千代丸および白山丸爆沈、婦女子380名が死亡
4,昭和18年12月までの南洋群島からの引揚者
①パラオ:4920名
②ヤップ:820名
③サイパン:2596名
④テニアン:1658名
⑤ロタ:387名
⑥トラック:3246名
⑦ポナペ:2208名
⑧ヤルート:362名
総計:16179名
⑨海没遭難者:1580名
5,降伏文書の調印
①ロタ:9月2日
②ヤップ:9月5日
③クサイ:9月10日
④ポナペ:9月11日
⑤トラック:10月初旬
⑥ヤルート:8月25日占領
2009年1月1日木曜日
新年の挨拶
새해 복 많이 받으세요.
A Happy New Year!
Felicxan Novjaron!
S Novym Godom!
Yangi yo'l bilan!
Guten Rutsch ins neue Jahr!
A Happy New Year!
Felicxan Novjaron!
S Novym Godom!
Yangi yo'l bilan!
Guten Rutsch ins neue Jahr!
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